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ホームレスの人と私の情けない思い出

(2021年8月のアメブロより転載)

29歳のときにアメリカへ語学留学した。

その経験は、多様性を受け入れる社会に触れ
他者を尊重しながら受け入れるという

私の価値観やうつわを
ひとまわり大きく成長させてくれた時間だった。


最初に驚いたことは

レストランで食べ切ることができずに
持ち帰ることにした食事を
外のベンチなどに座っているホームレスの方にあげていたこと。

ホームレスの方も
持ち帰りバッグを持っている人に対して

「それをくれないか?」

と言っているあたりも含めて
いろんな人が、いろんな状況で生きることが
受け入れられているように感じたのだ。

そして留学生活の中で
私も会話したり
持ち帰りのバッグを
渡したりするようになっていた。


この話をしていると
セットで思い返される
私の苦い思い出がある。

私のしょうもなさに
いたたまれなくなってしまうような話を。


おそらく18とか19歳の頃だったと思う。

なぜそんなところを歩いていたかも忘れたけれど
樹木が立ち並ぶ大通りを一人で歩いていた。

そこに突如ホームレスと見受けられる男性が
私の目の前に現れ

「100円くれないか」

と言ってきた。

おそらくジュースを飲むとか
そんな話だったと思う。


私にとってホームレスの方は
当時私が生きていた世界から見る
”普通”
ではないという認識で

なぜだか話していることが
恥ずかしいとか
どうしてお金をあげなくちゃいけないのか、とか

こわく感じたりとか

いろんな感情が入り混じって

とにかく関わりから逃げたい一心になった。

そうして財布を確認することもなく
「すいません。小銭持ってないです」と
人混みの方へと逃げたのだった。


なんでそんなことをしてしまったんだろう
どうして持っているだけの小銭くらい渡せなかったんだろう

と恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。


今になって中高のキリスト教の学校で何度も耳にした

ーあなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
ー求める者には与えなさい。
 あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。

という聖書の一句が思い出される。


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私は無知だった。

想像力もなかった。

というか想像することすらなかったんだと思う。

なので、どこかで
ホームレスであるのは
その人の責任がある

みたいに勝手に思っていたんだと思う。
ちゃんと考えもせず。

情けないことに。


無知であることは怖いなと思う。

勝手に自分で考えてもない正義をかざして
人を傷つけたり、優しくできなかったりするんだ。

さらにはそこから争いになることも多々あると思う。

今の社会を見てもそう。

オリンピックのことも
ワクチンのことも。

人は正義をかざすとすごく強くなる。


せめてその”正義”は自分の内にあるもので
本当に自分で考えたものであるといいなと思う。

そしてその願いは
人を傷つけながら行うものでありませんように

と思うのです。


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