全き人の【好き力】No.1 〜朱塗りの大傘『丿貫』へチカンという生き方〜


豊臣秀吉が、ある時日本最大級天下の大茶会を開いた。
1500余りもの屋外の茶室に、
全国から有名多大な茶人が集められ、
秀吉を喜ばす為の趣向を凝らす中、
茶人へチカン(丿貫)にもそのお声掛かり、
まず断ったというところも面白いが、
参加せねば命をと言われ渋々参加。

豪華絢爛天下の大茶会に一人遅れて参加した丿貫。
ボロ衣にたった一つ、何と2mを優に超える巨大な朱塗りの傘を引きずり現れ、
悠然と、その場にバサリと大朱傘を立て刺した。

大朱傘の下に、ボロ布を敷いただけの野茶席で、
丿貫は秀吉にあっさりとした薄茶を立てる。

「この薄茶‥
沢山の濃茶の中、私の喉胃を潤わす故か!」と
天下人秀吉を大いに感動させ喜ばしめた丿貫。

その後も天下人秀吉から大いにその人柄と生き方を面白がられ、優遇厚遇されたという。

自分を都合を考える人々の中で、
こんなにも人を想う、慮りの影響力の偉人が存在していたのだ!


千利休の兄弟子、茶人ノ貫(へちかん)。
戦国時代の名医、曲直瀬道三の姪婿、
もとは京都の豪商で、中年から世俗を離れ草庵に隠遁し、自由に風のように己の茶を楽しむ生涯を全う、
「風雅は身と共に終わる」の言葉通り、
利休のようにその美学と名声を残す事もなく、
自己完結の哲学を貫いた変偉人。

何の肩書も役職もないままに、その名を知る人は知り、生き方そのもので、物も書跡も何も遺さず、その生き方だけで、これだけ時代が移ってもなお細奥で語り継がれ深い影響だけを与える丿貫。

信長、利休、秀吉方が広めた高価な茶器や茶の湯という突出した文化そのものにも囚われず、
雑炊を焚いた釜を茶釜に使うほど道具に無関心だったという。 美味しいお茶を振る舞うことができれば、かたちはどうでもいい。
これを悟りと言わずして何が悟りなのか。
囚われない、拘らない、残さない、残そうとしない。
「残念」という通り、
「残念な生き方」になるのは、
念(想い=エゴ)を残す生き方、
自分の生きた証を残したいという想いこそが、
己で完結出来ない、
その命に満足出来ないという、残念無念になるのではないだろうか。

世に茶の湯と政治の世界でその名を轟かせた、
あの利休のその壮絶な辞世の句、
「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺
堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛」
まさに現れる残された念の強さから、
利休の哲学、美学からだけでなく、
その生き方に本当の意味で深く気付くべきではないだろうか。

ノ貫は、唐津焼を使い、竹の筒に梅の枝を入れ、懐石は焼き塩ばかりと、器にも花にも凝らず、懐石も珍味なしという、質素な茶であった。また彼は、毎朝手取釜で雑炊を炊き、その釜で茶をもいただいたという。この辺に名物など高価な茶道具に目もくれない素朴な茶道がある。

そんな利休が丿貫に茶に草庵に招かれた。
茶席なのに出迎えもなく、利休が自身でその草庵に足を踏み入れると、
何と何とまさかの落とし穴!

泥まみれになった利休を湯浴みさせ、無礼を詫び、茶を振る舞いながら無礼を詫びる丿貫。
その研ぎ澄まされた気持ちや想いを
アクシデントと湯浴みで一気に和ませてしまう
ノ貫の心理術。
史上最強の懐石、慮りではないだろうか。


へチカンという名前を知っている人は少ないが、
自然の景色の中に強烈な情熱を印象付ける、
茶野席の朱塗りの大傘は、
誰もが見た事のある好景。

方や、利休の美学の黒と引き算の茶器が、
今果たしてどれだけ残り、誰に求められているのか❔

晩年は薩摩に渡ったとも伝えられるが、
その書なども燃やし、一切を遺さなかったという丿貫。
その生没の不詳というところこそ、
その風の如き生き方が究極に現れていると。

「利休は人の盛なることまでを知って、
惜しいかな、その衰ふるところを知らざる者なり」
陰陽盛衰、全てこの宇宙成り立ちバランスを
その時代においてすでに知り尽くした丿貫ではなかったか。

もしかしたら、残す事に命を散らした利休という生き方が丿貫を生み、
遺さないへチカンの生き方が、利休を利休たらしめたのでは‥とも一人ニヤリとこの世の摂理、この世が全てバランスで成り立つとやはり考える私です。

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