「クオリア」解明こそが脳科学の本命だ~みこちゃんの科学論
茂木健一郎さんの本を読んでいると、「クオリア」ということばがよく出てきます。それは、論理的でわかりやすい茂木健一郎の文章の中では、とても異質の出現の仕方をする言葉で、あれ……感がとってもある。
つまり、茂木さんの中でこの「クオリア」というのは、解決済みの問題ではないのはもちろんのこと、おそらくまだ解決への緒すらつかんでいない最重要概念なのだろう。
いろんなところでこうでもない、ああでもない、と人知れず格闘している言葉なのだと思う。だからこそ、あれだけ読者の目線に立てる茂木さんの中で、異彩を放っているのがこの「クオリア」という言葉なのである。
もちろん茂木さんの楽しいエッセイで、学術的な話が急に始まるわけではない。クオリアとは、現代の脳科学でも物理学でも解けない、いや、解けないどころかアプローチすることすら難しい概念である。
だから、茂木さんは自分で「クオリア」という言葉を出したときには、後悔しているに違いない。自分の文章が乱れる、意味不明になるいことは明らかだと本人が一番良くわかっているからだ。
いうまでもなく、みこちゃんは、こういう茂木さんが大好きだし、だからこそ、脳科学なんて何も知らないくせに、茂木さんの脳科学は正しいのだと思う。茂木さんがライフワークとしている「クオリア」が何も解明されていないし、そもそも「クオリア」なんてものはないんだ!と主張する大物脳科学者が世界中にいてもである。
茂木さんは正しい。そして、そう思うみこちゃんも正しい。
科学的態度とは、つまりそういうものであるからだ。
私にとっての茂木さんの脳科学論の本質はこの「クオリア」なんだけど、これは、こういう専門書を読んでいるときに浮かぶものではない。これは、もちろん、相対性理論まで登場する素晴らしい、もともと理論物理学が専門の茂木さんならではの論文集なのだけど、クオリアが実感できることを目指してまとめられた本ではない。これを読んだからクオリアを実感できるものではない。
私にとって、茂木健一郎のクオリアは、読者目線の限りない慈愛に裏打ちされた茂木さんのユーモアと、ときに毒舌があるあの文章の中に、唐突に出てくる「クオリア」という言葉そのものだ。
脳科学者茂木健一郎は「クオリア」という言葉を出すと自分が失語症になることをよく知っている。でも、出さざるをえない。
そこにこそ、みこちゃんは、チョコレート、バタートースト、なつかしい友人を感じる。文章を読むとはそういう、クオリアをつかむことに他ならないからだ。
最近noteメンバーとの私的サークルで(みこちゃん主催なのでもうハチャメチャ)、みこちゃんの文章のことを俯瞰できている文章だ、ということで褒めてもらった。
でも私はこう返した。
私は山に登らないと俯瞰できないだけだよ、〇〇ちゃんは山に登らなくても俯瞰が出来る文章を書く人だ。
その方は、この言い方を気に入ってくれたようだった。
そうなのだ。
文章も科学も学問全般も同じだ。
必要だから山にも登らざるをえない。
でも、山から降りてきてホッとして、茶店で熱いお茶を飲んだ瞬間に、この山の神秘に直撃的に触れたりするものだと思う。
だから、人の文章を読むということは、その人のクオリアを感じることに他ならない。途中の理屈や、noteで流行っているその人がどれだけ不幸だったかとかは、うぜーだけでどうでもいいのだ。
そして、エッセイとはこういうものだ。クオリアが内蔵できればそれは、ロボットではなく、人間の書いた文章だ。クオリアそのものなんだ。
エッセイは身辺雑記じゃない。身辺雑記には、チョコレート、バタートースト、なつかしい友人のことは書いてあっても、チョコレート、バタートースト、なつかしい友人を感じられない。
不幸だったことは、不幸なことを書いても何も伝わらない。もちろん、楽しかったこと、幸せだったことも。文章はそんなに甘くない。
これができない人は、人の文章とロボットの文章の違いが分からないだろう。どうでもいい不幸や幸福な話に共感しているふりをしている人間は、中国人の部屋の住人なんだ。
根源的な不幸や、根源的な幸福は、共感なんかで伝わらない。伝わるわけがない。渋谷にナンパに行ったことのない人間には無理なんだ。
チューリングテストへの根源的批判である「中国人の部屋」はAIの最難関の問題であり、そして、クオリアこそがこの問題を解決するのだと思う。いつか、茂木さんにお会いする機会があったらそう言ってみたい。
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