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マインドフルネスを実際にやる!④自己曼画で本質を理解する

 それでは、内山興正老師の面白そうなあの図を見ていきましょう!

 まず、内山興正老師についてですが、You Tubeにてご本人の声を聴くことが出来ます。

 道元の『正法眼蔵』の一部です。お声がとても朴訥としていて、でもなんだかすげーありがたい感じがする!(^-^)

 出だしはこれを朗読、(すいません、仏教の常識なくて……。朗読って言ったら失礼なんだろうか……)読経されています。

仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり。しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり、学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず。将錯就錯せざるがゆゑに、おほく外道に零落す。いはゆる即心の話をききて、痴人おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり。

道元『正法眼蔵』第五「即心是仏」巻 原文

現代語訳

悟りを開いた祖師方が保持してきたのは、即心是仏という名の悟りである。
この即心是仏という言葉はインドにはなく、中国で生まれたものだ。
仏道を学ぼうとする者たちは、この即心是仏が何であるかと参究したが、多くの者はその真意を誤って解釈した。
わからないままであればまだよかったものを、誤って解釈したたがために仏道を外れることになってしまった
即心是仏という言葉を聞いて、愚かな者はこう考えた。
心が仏である」というのだから、仏とは人間の思考や知覚のことであり、仏道を歩まずとも人間は心のままに仏である、と。
こうした誤った考えは、仏の教えを正しく説く師に出会うことがなかったがために起こった結果であると言わざるをえない。

道元『正法眼蔵』第五「即心是仏」巻 現代語訳


 人間は生まれながらに仏様のような慈悲に溢れた心を持っている。確かにこういう大乗仏教の教えもあります。でも、ここでいう愚かな人は、だから仏教修行やらなくても良いやーとなってしまうわけです(笑)。

 もともと、人間の心の奥底に仏様のような、静かで慈愛に満ちた心があるのは、それはみこちゃんもそのとおりだと思っています。でも、この世知辛い世の中でそれを前面に出して、あるいは全面的にそれを生きることは難しいですよね。

 だからこそ、それを仏道修行(現代の言葉で言えばそれをマインドフルネスと置き換えても良い)でその、人間の良い部分を表に引っ張り出そうというのが、仏教の、道元禅師の、内山興正老師の、山下良道さんの、そして正統的なマインドフルネスの考え方というわけです。

 なんちゃってマインドフルネスのお手軽な、リラックスとか、ストレス軽減とか、集中力とか、そういうのは、この仏性(人間本来のすばらしい可能性)が表に出てくれば全部叶うわけだしね。

 では、分かりやすそうで、それでいてとっても深遠な感じのする、この内山興正老師直筆の(多分そこらの極太マジック(笑))図を見てまいりましょう。

 以下、この本のP8-P22を読んだ上で、まとめています。


 人間は社会的動物(ポリス的動物)であるっていう、アリストテレスみたいな考え方もありますが、仏教ではまず、人間は「個」として孤独だっていうその自覚から始まります。

 日本人は個人主義の「個」があいまいだって、明治維新からずっと言われ続けてきていますけど、日本人の大部分が親しみのある仏教ではもともと「個」が人間の出発点だったわけですね。


 でも、人間は「コトバ」によってつながることが出来ます。ここが動物と一番違う所。感情や映像もたしかに重要ですが、いわゆるほんとうの意味で「腑に落ちる」感覚というのは、いい言葉、その時に一番しっくりする言葉(コトバ)に出会ったときですよね。

 なぜなら、人間のみが「コトバ」によってつながることができるからです。


 コトバは挨拶だけではなく、それによって、やり取りや貸し借りも生まれます。人間関係というものが出来ていくことを、この図は説明しているわけです。

 さて、こっからがすごいんですよ!


 いきなりここで、これまでのこの連載の主題が出てきました!なんだかこの枠の部分は、劇場のスクリーンみたいですね。

第4図とそっくりです

 第4図では、内山興正老師の手書きイラストに文字が加えられていますね。貧乏、不幸(右下)から逃れて、金、幸福(左上)に集団が一生懸命移動しようとしています。会社組織と言ってもいいし、発展途上国が先進国を目指していると言っても良いでしょう。現代社会では、この世の中、すべての集団がこれになっていると言ってもいいと思います。


 そういう世界になっちゃうと、主義とか主張によって、そしてユダヤ教徒やマホメット教徒が、エルサレムは俺のものだ!という感じで争うようになります。

 そして、ユダヤ教徒やイスラム教徒じゃなかったとしても、私達は第4図Bにありますような「主義」によって、最初は映画館の映画を外側から見ていたのですが、いつしか、この中のどれかのグループに入り込んでしまいます。

 ここに、お釈迦様の言う四諦が出てくるわけですね。

四諦とは
苦諦は迷いのこの世はすべて苦であるということ。集諦はその苦の因は愛執であるということ。滅諦はその愛執を滅することが理想の涅槃の境界であるということ。道諦はその涅槃にいたる因として八聖道を実践修行しなければならないということ。

コトバンク「四諦」


 だから!


 苦しみからほんとうの意味で逃れるためには、座禅によって(この図の下のなんだかテレビ台みたいなやつ(笑))、もう一度、最初に(生まれながらの仏性とはここにある)戻ってこの世界の主義主張のどれかに属しているのではなく、それを全部俯瞰できる立場に立とう!というのが、この図です。


 だから大切なのは!

 主義主張に囚われた中、その内部で、それを克服しようとしちゃダメだ!っていうことです。

 多くのマインドフルネスが間違っているのはここです!

 第4図のどっかの主義主張に属したまま、それを克服しようとしても(映画の中で頑張っても)、例えばGoogleがやっているみたいに、仕事ができるようになって会社の中で出世できた、という結果は得られても、第4図Aにあるような、会社全体が、金と俗世間的な幸せを求めている映画の世界の中からは抜けられないわけですね。

 つまり、会社物語という映画の中での出世はできたとしても、会社にいることがつらい、という切実なすぐにでも解決したい悩みには、普通のマインドフルネスはいっさい効かない!というわけです。


 だから言い換えれば!

 現在会社で成功している人が、もっと会社で成功する(会社物語を肯定している、肯定できている人がそれをもっと加速させる)ためには、普通のマインドフルネスは有効だけど、まさにGoogleが採用したように、それは成功者のためのマインドフルネスなのです!

 だって、そうですよね。Googleがマインドフルネスを導入したのは、Googleで成功している人がもっと成功してもっとGoogleのためになるように働いてくれることです。

 Googleについていけない人、そもそもGoogleの入社試験を突破できない人に対して、頑張れよ!だなんてこれっぽっちも思ってません(爆)。

 そういう人はどんどん落伍してほしいわけです。

 これが企業でもてはやされる、企業がやりたい、そして、その雰囲気に乗せられてビジネスマンが手を出している日本の現在のマインドフルネスだと言えるでしょう。

 本当のマインドフルネスの世界は、冒頭の道元の『正法眼蔵』がその全編で説いているように、修業によって、本来の仏性(人間の最大限の可能性、良いところ)を表に出すことなのです。

 でも、それがいつの間にか、Googleに入れるような人(華やかな映画の世界に入れた人、そしてそこで活躍できている人)のための道具になっている。

 仏教系の人が、普通のマインドフルネスに否定的な理由はどうやらこの辺にありそうですね。

 さて、これで大体概観は出来ました。

 興味がどんどん出てきた人はこの本も手に取ってみましょう。

 みこちゃんは買いましたが、パラパラしただけで、じっくり読むのはこれからです。

 次回は、再び実践的な話に移ります。

 予告していた、ちょー有名な、マインドフルネスと言えばこれっていうこの本を取り上げます。

目次

第1章 日常の実践
第2章 食べる実践
第3章 体を使う実践
第4章 人間関係とコミュニティの実践
第5章 様々な実践
第6章 子どもと一緒にする実践

 ただ、座ってやるだけじゃなくて、日常生活のあらゆる面で、すぐその場でできてしまうマインドフルネスです。瞑想センターに行く必要もありません。でも、それが返って本格的だな、本質的だな、と思えます。

 ではでは(^-^)


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