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【みこ宇宙論】仏教・宇宙・量子力学

しばらく宇宙論を書いてみようと思う!(^~^)

 マズローが一段落して、それと連動していた動画も完結。

 かねてより追求したかった仏教の宇宙論をしばらくやってみたいと思います。

 (^~^)ワクワク

 みこちゃんの発想は根底は全部文学です。理系的なあるいは宗教的な話も全部、実感として最初文学的な何かがないとスイッチが入らず、ちんぷんかんぷーんで何も理解できません。

 表題に仏教とか宇宙とか量子力学とか書いていますが、根底にあるのは、法然上人の和歌でした。

法然上人の歌から量子力学の知見を手繰り寄せる

月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ

 正統的な国文学的解釈は、これを『観無量寿経』の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」を詠んだものとするものです。

 月の光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺める人以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人のみが阿弥陀仏の救いをこうむることができる・・・という意味ですね。

 でも、この歌はここにとどまらない。そんな気がしていました。月は普段気にもとめていないけど、今夜は十五夜だったな……と空を見上げるときに、まるで月が待っていたかのように、私たちの目の前にすっと存在する。

 みこちゃん解釈を載せておきましょう。

月影の いたらぬ里は なけれども

月影が照らし出さない里はない、つまり地球上のどの場所からでも月の存在は確認できるけれども

ながむる人の 心にぞすむ

⇒しかしながら(ぞ)月というものは宇宙空間の何処かにあるのではなく、まさにそれを観察する(ながむる)人の心の中にひっそりと隠れている(すむ=棲む)ものなんだ

 みこちゃんの凝っている唯識哲学です。

 観察して初めて対象はその姿を表す。なんだか神秘的な世界ですよね。でもこれは、量子力学の根本的な立場だったのです。

法然上人の歌は量子力学そのものだ(゚0゚;)

量子力学によれば、これらの素粒子は、普段は確率として、ぼんやりとした霧の塊ように存在しており、観測を行なうまではその厳密な位置や速度などの状態を確定できない。つまり、見ていない(観測をしていない)素粒子は、見るまでは存在していないとも表現できる。

PCウォッチ「この世のモノは見るまで存在しない」

 そして、これって、量子力学の世界そのものだと昔高校生の頃気がついた時、仏教って宇宙論なんだな、いつかアマチュアながら勉強してそのことを整理したいな、と思っていたのでした。

 最近いろんなご縁があって、仏教の勉強を本格的に始めて、やっとその整理をするときが来たという感じです(^~^)。

「量子のもつれ」って、この上なく文学!

 今、一番面白いなと思っているのは、量子力学の「量子のもつれ」という考え方です。

 この本のタイトルにもあるように、「量子のもつれ」というのは、ある条件を満たす形で一旦ペアとなった2つの粒子には、相互に切っても切れない強い関係が生じるというものです。

「痴情のもつれ」って言葉がありますよね(爆)。不倫関係などの男女の一方が他方を刺し殺すのとか、みんなやってるじゃないですか。あれです。要するに、「もつれ」っていうのは「ただならぬ関係にある」ってことです。

 素粒子レベルでそういう「痴情のもつれ」みたいなのがあって、なおかつそれが、量子力学の根幹であると知ったときに、みこちゃんは、高校のときに一旦熱中して醒めていたのですが、再び量子力学マニアになりました(爆)。理系の人にめっちゃ怒られそうですが……。
( U_U)

 その関係っていうのが、近くにいるときにふわーーーと引き寄せあって水H2Oを作るとか、そういう距離感じゃなくて、地球にある素粒子と、宇宙何万光年先、アンドロメダ星雲のイスカンダルまで離れていても、古代進と森雪のように、一方が反応したら、光の速度よりも早くそれが相手に伝わり相手にも影響を与えるということなのです。

 光のスピードより速くっていうのは実験で確認されていて、それが物理学会界隈でホットな話題だと知ったアインシュタインは、光のスピードより早いっていうのは認められなかった(相対性理論はそこ譲れないよね)ので「不気味な遠隔作用」とか言ってました(かわいい(笑))。

法然は華厳経で量子力学の「重ね合わせ」を学んでいたと思う

 ところで、法然上人は天台教学のエリートさんなので、延暦寺での必須科目である華厳経というお経もきっちり勉強しています。

金剛峯寺と全然雰囲気違いますね……

 その華厳経の中に「無尽重々縁起」という縁起の中でも、特に量子力学の「量子のもつれ」を言っているのじゃないかな、と思える考え方があります。

華厳思想中心になるのは、この世界実相個別具体的な事物が、相互に関係しあい(相即相入無限に重なりあっているという考え方(重々無尽の縁起)である。

Weblio「重々無尽の縁起」

 量子力学でも、この「重々」、「重ね合わせ」というのは最重要な考え方です。例のシュレーディンガーの猫にも大いに関わってきます。下記は、それはおかしいだろう……という部分を説明してくれています。おかしいのなら、コペンハーゲン解釈はダメで、みこちゃんの大好きなエベレット解釈(多世界解釈)が正しい、ということになるのですが、これはまた別記事で書こうかと思います。

「量子の世界では2つの状態が同時に存在する。つまり、2つの状態が『重ね合わせ』になっているというのが量子力学の考え方。しかしそれなら、量子の集合体である猫も重ね合わせ状態になるということになる。それはおかしいだろう、量子力学は間違っているのではないか? という有名な問いかけです」

東京大学サイト
「シュレーディンガーの猫のパラドクス」を解き、光量子コンピュータ実現に挑む
大学院工学系研究科 物理工学専攻 教授 古澤 明

 だから「重ね合わせ」をコペンハーゲン解釈でそのまま受け入れると、波動関数の収束は統一理論の内部には構築できないだろ、っていうことをこの先生は言っているのだと思う。だからコペンハーゲン学派の流れをくむ現代の量子力学の標準理論は公式の寄せ集めになっているのではないか。

 別記事で書くって言ったけど、素描だけしておこうかな……。

 観察主体も粒子であると考えれば、観察主体が分裂すると考えた方が遥かに整合性があるし、量子のもつれが存在するのも、観察主体が分裂すると考えれば当然そこに高速より早い粒子の移動が生じても(見かけ上、移動として観察されても)おかしくない。

 正確にはそれは移動じゃなくて、観察主体内部における粒子の分裂生成だからです。この量子のもつれからの説明が、おそらく、この世はそして人間は、無限にあり得たかもしれない自分の中の一つを選択している、多世界解釈の住人だとするエベレット解釈を一番キレイに説明できるとみこちゃんは思っているのですが……。移動じゃないから、アインシュタインもみこちゃん説なら頷いてくれるのではないかな……?

 移動と考えるのは、月が空間に存在していると考えるからです。もし月が、唯識哲学のように、観察する(ながむる)人の心の中にひっそりと隠れている(すむ=棲む)ものなんだとすれば、量子のもつれにおいて素粒子が光速より速く移動(したように見える)のは、ながむる人(観察者)が分裂しているからだ。

 つまり、法然のように月を眺めれば、多世界解釈も量子のもつれの超高速移動も、波動関数の収束問題も、何の違和感もなく説明できると思う。波動関数はどこかに収束するのではなく、分裂した人間主体の数だけそのまま新しく粒子化した波として在り続けると考えれば良い。この考え方は華厳の無尽重々縁起+唯識の阿頼耶識だね。

 量子力学用語を使えば、あの月を見たときの法然的世界では、波動関数が収束するのではなく、その瞬間にデコヒーレンスが生じていると考えられる(よね?法然さん?)。

量子世界で起こる状態の重ね合わせが壊れること。シュレーディンガー波動方程式で表される波は、いくつかの状態が重ね合わさって存する状況を意味するが、その状況は周りの環境の影響でたやすく壊される。人間による観測行為も、そういう影響の1つ。量子コンピューターは状態の重ね合わせを保って並行処理をする装置のため、重なりの消失を防ぐのが開発上の課題。

コトバンク「デコヒーレンス」


 違うかな?これが一番いいよね。そうとしか今みこちゃんは、考えられないのだけど……。少なくともボーアたちコペンハーゲンの天才たちに、この日本人には馴染み深い大乗仏教の唯識哲学的発想はなかったと思う。ヨーロッパにいたからしょうがないね。

 だいたい今、こんなことをぼんやり考えています。

 今、仕事部屋には仕事の本の他に大量の量子力学の啓蒙書が多数散乱しています(いちおう数式だらけのものも数冊ある……がどこまでちゃんと読むかは分からん(笑))。

 ちょこちょこ、また整理できた順番に書こうと思っています。


人間が月を見たのなら、月もきっとその時人間を覗いているのだと思う

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