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「K」の頃。

オリジナル曲「K」についてのお話。


僕の学生時代、特に恋愛に関しては「暗黒時代」であった。と、つい最近まで思っていた。

先日、屋根裏部屋から錆びた古い煎餅のカンカンを引っ張り出してきた。もちろん煎餅は入っていなくて、中にはエアメールがギッシリ詰まっている。

僕は小さな頃から大人になるまでボーイスカウトに入っていた。そして高校生の頃、世界ジャンボリーという4年に一度の世界大会に参加した。何万人という数の世界中のスカウトが一つの国で一緒にキャンプをするのだ。期間は確か一週間ほどだったと思う。その期間中、色んなプログラム(ハイキングや民芸工作など)を自由に選択して参加しながら野営をする。

プログラムの合間には海外のスカウトのサイトを訪問して、持って行った日本の折り紙などの小物や名刺、制服に付けるワッペン、ネッカチーフ等を交換したり、たどたどしい英語とゼスチャーで会話を楽しんだ。

日本に帰って名刺を貰った何人かに手紙を出して、何人かから返事が来た。その中で文通が続いたのはアフリカの男の子と韓国の女の子二人。

まずはアフリカの男の子の話をしよう。

彼とは男同士という事もあり、一番長く手紙をやり取りしていた。手紙を書いて返事が来るのは4週間後。好きなスポーツは何だとか、そっちは今暑いのかとか、その程度の内容だ。

お互い働きはじめ徐々に疎遠になり、どちらからともなく連絡は途絶えた。ずっと気にはなっていたが、そのまま25年という時が流れた。

3年前。その頃Facebookをやっていたので、何気なく彼の名前を検索してみた。同じ名前で似たような人は沢山いる。しかも実際に会ったのはジャンボリーの開会式の夜一度きりで、後は写真しか見たことがない。そんな中でも、この人はかなり似てるな。と思った人がいたが、その人はイギリス在住と書いてあった。

気になり始めたら、ムキになって色々と検索しまくった。すると一件、気になる記事を発見。イギリスで警察官が亡くなったというものだ。そして、その警官の名前が彼の兄と同じだったのだ。よくお兄さんとの写真を送ってくれていたので覚えていた。僕は思い切って、そのイギリスの人にFacebookでメッセージを送ってみた。

「あなたは○○年の世界ジャンボリーに参加しませんでしたか?」

アタリだった。実は彼の方でも、かなり僕を探していたようなのだが、実家もウチも何回も引っ越ししているし。僕の名前は日本で5億人ぐらいいるんじゃないかというぐらい単純な名前だ。検索に引っかかる訳もない。

お互いビックリ、大喜びでアプリを使って電話。今の世の中、国際電話も無料で出来る。英会話の能力、当時のまんまの私は半分チンプンカンプンであったが再会を喜んだ。

そして、なんと彼は奥さんを連れて日本にやって来たのだ。

一週間ウチに泊まった。奈良や京都に遊びに行って、夜はいろんな話をした。経済事情が困難な祖国を出て、イギリスへお兄さんと渡ったそうだ。彼については「キャンプファイヤーキャンドルライト」という曲にしている。もちろん、それからも交友は続いている。

それで、前置きが長くなったが女子二人の話だ。

便宜上、kさんとmさんにしようか。

世界ジャンボリーの二日目ぐらいの夜に僕は何人かの友達と韓国のガールスカウトのサイトに訪問した。その時に歓迎してくれた女の子の一人がkさんだ。僕たちは名刺を交換して、お互いの国の事などを話した。

翌日の昼、もう一度そのサイトに訪れて「この人はいますか?」とkさんの名刺をみせると、「今はいません。」と言う。ああそうですかと、と引き返そうとする僕の袖を掴んで、「まあいいではないですか。お話ししましょう。」と迎えてくれたのがmさんだ。

さらに2~3日後。雨の中、僕は友達とkさんを訪ねた。kさんは僕を憶えててくれて、タープの下のテーブルへ招いてくれた。その時。

ザバー!

たわんだタープから溜まった水がkさんの頭に直撃。1リットルぐらい被ったんじゃないだろうか。一同、驚きと笑いの声をあげた。僕は当然、着替えに行くだろうと思っていたら、タオルで少し顔を拭いてニコニコと話を始めようとする。「大丈夫ですか?着替えたら?」と言っても、「大丈夫、大丈夫。」と話す彼女。僕は、優しい人なんだなあ。と思って、その後もその事がずっと印象に残っている。

その後もプログラムの合間に何度か韓国サイトを訪れたが、その後kさんには会えなかった。

大会最終日、中国のスカウトがバスに乗り込んでキャンプ場を後にするところだった。僕と何人かの友達がそこをたまたま通りかかった。中国からも多分、何百人単位で来ていたのだと思う。結構な数のバスで、まだ残っている他の国のスカウトが大勢見送りに来ていた。中には涙のお別れをしている人達もいた。なにせ、みんな高校生だ。国際カップルなんかもできたのだろう。

僕たちがその場を通り過ぎたころ、なんとkさんとたまたま出会ったのだ。僕はお別れの挨拶をした。すると彼女は自分がつけていた十字架のペンダントを僕に掛けてくれた。

日本に帰って、僕はすぐに大会で出会った何人かの人たちに手紙を書いた。アフリカの彼、制服を交換したイギリスの男子、ネッカチーフのリングを交換したフィリピンの男子、その他珍しい国の人たち、そしてkさんとmさんだ。

先に書いた通り、その後文通が続いたのは3人。アフリカの彼とmさんは電話までくれた。返事が来るまでアフリカからは早くて4週間、韓国からは2週間。実家のボロボロに古いポストに場違いのエアメールが入っていた日はウキウキした。特にkさんからの手紙はポッと桜色に見えたのだ。Eメールなんてない時代だ。

kさんとは色んな話をした。彼女はクリスチャンだった。韓国と日本の歴史についても、もちろん話した。「私は日本人は嫌いではないです。でも日本という国は嫌いです。」胸にグッと刺さった。僕が新聞配達をしている話。彼女の夢に僕が出てきた話、スイカを持ってたらしい。次の時から手紙の最後にFrom:watermeron.と書いた。お互いの好きな音楽のカセットテープを交換した。彼女はシンスンフン、僕は佐野元春とか。

ある日、すきな人の話になった。当然の年頃だ。すると彼女はなんと中国人の男の子が好きで恋人同士だと言う。そう。あの日kさんも中国のボーイスカウトの彼を見送りに行っていたのだ。僕はカッとなって彼女が嫌がることをいっぱい書いて送り返した。返事には「涙がポロポロと流れて止まりませんでした。何故あんな酷い事を言うのですか。」と書いてあった。酷い事というのはkさんが髪を伸ばしていると言っていたので、「その髪をハサミでちょん切る。」とか幼稚極まりない文句だったのだが。

僕の記憶はそこで少し歪んでいて、そのままkさんに手紙を書くのは辞めてしまっていたと思っていた。しかしカンカン開けて手紙を読んだら、どうやらちゃんと謝って文通を再開したようだ。それだけでもホッとした。

kさんと僕は同い年だったが、僕の印象ではkさんはいつでも僕より知的で、大人で、優しかった。

しかしこの度、手紙を読み返してみて思ったこと。最後の方の手紙では彼女はしきりに「どうか手紙を書くのを辞めないでください。」って書いている。その当時の僕は就職試験と国家試験を控えていたらしく、忙しいとか書いていたんだろう。でも本当のところは、友達と合コンとか行ってたりしたので目先の楽しさを優先していただけだと思う。しかし、僕らなんかよりもっともっとハードな教育を受けていただろう彼女にとって、僕に手紙を書くという事が何らかの癒しになっていたのだと今なら思えるのだ。なんて自己中なアホだったのだろう。まあ、その年頃の男なんてみんなアホやけど。

その頃の僕は手紙が来る度、英和辞典と取っ組み合いで難しい構文はパスしたりして読んでいたわけで。ようは英語も女心も全く読めないガキだった。まあ今もそんなには変わりないが、読んでみると当時とは違う印象がどんどん感じられる。中国人の恋人がいるから、私は恋愛対象ではないですよ。と言われているように思っていたのだが、ちょっと様子が違うのだ。僕が本当の気持ちを伝えるのを待っていたんじゃないかな、とも取れることが最後の方には特にたくさん書いてある。

およそ5年間。10代後半から二十歳過ぎるまでの5年間。そんな貴重な時間を僕たちは離れていたが一緒に過ごした。その後の人生がkさんやmさんにとってどうかどうか幸せであったことを、そして今も元気でいることを祈る。

「恋愛暗黒時代」だと思っていた10代後半から二十歳の僕。女の子とデートしたり手なんてほとんど握ったこともなかったが。暗黒どころか、バッチバチに青春しっとったんやなあ。

思いの詰まった一曲になったのだが。もっと流れるような美しいメロディをつけたかったのに。グニャグニャ曲がったクセのある歌になってしまった。二十歳の頃の僕の様に。