カミングアウト問題としての「先にいる人/後から来た人」
カミングアウト問題
僕はかつて、外国人登録証を持つ立場にありました。若い頃は、これを「隠している」と思われるのが嫌で、知り合った人には必ずそういう立場であることを伝えていました。だから知らない人はいませんでした。
でもある時、伝えることで人を試しているような自分に気づいてからは、ことさら言うのはやめました。ただひとつだけ、疑問が残りました。
自分から言わなければ、なぜ「隠している」ことになるのか。なぜ僕には、「言うか言わないか」の2択しかなかったのか。カミングアウト問題です。
糸井重里さんの「今日のダーリン」
ヒントを与えてくれたのは、「ほぼ日」糸井重里さんの「今日のダーリン」でした。
後から参入する者に、場所なんか空いてないのだ。
空いているとしても、最悪の場所だけだ。
(2013年10月10日「今日のダーリン」より)
僕は「後から参入する者」=「後から来た人」だったのです。
人は未知のものに、興味と恐怖を同時に感じます。「先にいる人」から見た「後から来た人」は、敵か味方か? 敵だと思われたら入れてもらえないし、最悪攻撃されます。
だから、「後から来た人」は自ら「怪しいものではありません」とアナウンスしていく必要があります。
カミングアウトは、マイノリティ(少数派)である「後から来た人」から、マジョリティ(多数は)である「先にいる人」に対してのみ必要になります。だから僕には「言うか言わないか」の2択しかなかったのです。
「最悪の場所」から与えられる
カミングアウトが受け入れられれば、「最悪の場所」から与えられます。「普通の場所」や「最高の場所」には、先に誰かがいるからです。その「先にいる人」も、かつては「後から来た人」だったはずです。
以来、あらゆる問題が、僕には「先にいる人/後から来た人」という、時間と空間の問題として感じられるようになりました。時間と空間の変化が折り重なって、世界ができているイメージです。
互いに少しずつ差し出す
そして、それぞれに役割があると考えるようになりました。
「後から来た人」は大抵の場合、新しさをもたらします。「先にいる人」はそれを受け入れることで、共同体の停滞を防ぎ、リフレッシュできます。
「後から来た人」がいられない共同体は、衰退します。目の前の無数の実例があります。
ならば「後から来た人」は、「私はこういう者です」と自ら名乗っていく。「先にいる人」は「お疲れ様。まあお茶でも一杯」の気持ちで受け止める。そんなところから始めて、なんとなく、互いに少しずつ差し出すような感じで進んでいくのがよいのではないかと。
限られた社会資源を奪い合うのではなく、増やせるような関係性をいかに結んでいくか。ゼロサムではなくプラスサムの関係を構築していくか。
この最初の出会いは、非暴力的で、それなりに礼儀正しいものであるはずです。
「きずなメール やさしい日本語版」のスピリット
先日、団体で挑戦した「きずなメール やさしい日本語版」のクラウドファンディングも、日本に「先にいる人」である僕らが、「後から来た人」たちをどう受け入れるか、という問題とつながっています。
今や「先にいる人」になりつつある僕は、まずこちらから「お疲れ様。まあお茶でも一杯」と伝えるところから始めたい。かつて極東の島国が、半島からやってきた僕の祖父母にそうしてくれたように。
http://kizunamail.hatenablog.com/entry/2021/01/28/202909 より転載
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