【小町がいたこと】 Episode⑭ 長い夜へ
喫茶店を出たのは、七時を少し回った頃だった。街は夏の陽の残滓によってどうにかその輪郭を保っていて、アスファルトは寡黙に熱を放っている。小町の歩調が僕のそれより少しだけ早く、やがて彼女の背中を追う形になる。さっきからお互いに一言も口を利いていない。けれど、息苦しさを感じることはなかった。
前を歩く小町の黒い髪が、規則正しく揺れている。半袖の黒のブラウス。ひざ下まで伸びた白いフレアスカート。細い手首にかかった日傘の柄。小ぶりな黒いショルダーバッグ。これまでに数えるほどしか目にしていない私服姿を後ろから眺めながら、彼女が向かう先はどこだろうと考える。けれど、自分が恋心を抱いている女の子の後ろを歩いているせいか、思考はすぐに散り散りになってしまう。
僕たちはそれぞれの歩調を維持しながら、少しずつ明度を落としていく街を黙々と歩き続けた。歩道には僕たちの他に誰もいない。車も自転車も犬も通らない、静かな夏の夕暮れだった。空は橙色と群青色に柔らかく二分されていて、群青側の空には白く光る一番星が浮かんでいた。
大通りの角を曲がると、見覚えのある建物が見えた。小町の住んでいるアパートだった。
「今夜は、一緒にいてくれないかしら」
街灯の下で立ち止まり、彼女は僕を見つめてそう言った。その表情からは、いかなる意図や理由も読み取ることはできない。
「それは、僕が君の部屋に泊まるということ?」
小町の部屋に泊まる。自分自身で口にしたその言葉で、僕は緊張し始めていた。
「ええ」
「それが、僕へのお願い?」
「ええ」
小町がわずかに顔を伏せ、左手で右の二の腕をそっとさする。そうしながら、彼女は次の言葉を探しているように見えた。
「今日の夜だけは、一人になりたくない。伊勢君に見守られながら眠りたいのよ」
まっすぐで、少し傲慢な、小町らしい頼み方。けれど、今はそこに弱々しく切実な願いが含まれていた。なおも彼女は続ける。
「先に言っておくけれど、私は伊勢君になにもしてあげられない。あなたがなにかを期待していたとしても、そのなにかが叶うことは、きっとない。……すごく勝手なことを言っているのはわかっているわ。でも、こんなことを頼める相手は、私には伊勢君しかいないのよ」
お願い、と彼女は言った。普段は怜悧な光を宿している一対の瞳。今はその奥に、葛藤や、誠実さや、不安といった様々な意思や感情が収斂されているような気がした。
彼女のお願いは、僕の想像の範疇にないような内容だった。どうしてそうまでして、僕をそばに置こうとするのだろう? 気になったけれど、訊ねられるような雰囲気ではなかった。今の僕の役目は、彼女が安らかに眠れるようにそばにいること。ただそれだけのようだ。
「本当に泊まっていいんだね?」
「ええ」
「着替えもなにも持ってきていないけど」
「気になるのなら、とりに帰ればいいじゃない」
そんな風に、真正面から堂々とした視線を向けられると、僕の方も腹を括るしかないのだった。
「いいよ。このままで」
小町の切実な懇願に対する疑問と、これから待ち受ける長い夜への漠然とした不安を抱えながら、僕は彼女に続いてアパートの階段を上り、部屋に上がりこんだ。薄荷の匂いが前と変わらず僕を出迎える。
ここには、僕と小町の二人しかいない。好きな人の家で二人きりで、おまけに一晩を一緒にすごすという、願ってもないシチュエーションのはずなのに、とても素直に喜べない。喜ぶべきではない、と本能が警鐘を鳴らしているような気がした。
「少しだけここで待っていてもらえるかしら」
彼女はショルダーバッグをソファに置き、エアコンを起動させてから、さっさとリビングを出て行ってしまった。僕は革張りのソファに座り込んだ。そして家に電話をかけ、今日は友達の家に泊まる、と手短に伝えた。
久しぶりに入ったリビングは、相変わらず整然としていた。ソファの前のローテーブルには、『The Bluest Eye』という一冊のペーパーバックが置いてあった。他にすることも思いつかなかったため、僕はその本のページを繰り、どうにか理解できる文章を探して翻訳しようとした。けれど僕は、気がつけば字を目で追いながら小町のことを考えてしまっていた。美しい小町。ヨーロッパから帰ってきて、やつれてしまった小町。そばにいてほしい、と僕を家に招き入れた小町。僕が、恋をした小町。余計なことは考えるな、といくら言い聞かせたって、小町のことを頭の中から追い出すのはやはり不可能なことだった。
静かなリビングに、水の流れるような音が一定のトーンで満ちている。耳をすましてみると、それがシャワーの音だということに気づく。余計なことは考えるな、と重ねて自分に言い聞かせながらページを繰っている間に、シャワーの音は止み、ややあってドライヤーの唸りが聞こえた。けっきょく僕は、そのペーパーバックの内容を一行たりとも訳すことができなかった。
やがて、涼しげなサテン地の白いルームウェアに着替えた小町がリビングに戻ってきた。その長い黒髪は、まだ少しだけしっとりとしている。疲労のせいかメイクの有無のせいかわからないが、彼女の表情は少しだけ心許ない影を纏っていた。そんな影すらも、僕には危うい魅力のように映った。
「お腹は空いているかしら」
「大丈夫だよ」
そう、と呟いて、小町はリビングにある引き戸を開けた。それはまた別の部屋につながっていた。
「今から眠ろうと思うの。伊勢君、ついてきてくれる?」
「小町はなにも食べないの?」
「ええ。なにか口にするより、さっさと横になってしまいたいから」
リビングの明かりに照らされたそこは、きっと彼女の寝室だ。あそこに入ってしまうともう後戻りはできないんだな、と思うと、ため息が出てくる。
「小町は、僕のことを甘く見積もりすぎているんじゃないかな」
今さらこんなことを言っても仕方がないと思うけれど、口にせずにはいられなかった。小町は、僕の言葉の意味を考えているようだった。そして洗い髪を耳にかけながら、眠りにつく前にもう一回だけ、というように両目を細めて、柔らかな笑みを浮かべた。
「そんなことはないわ。伊勢君はただ漠然と私の眠りを見届けるのではなくて、危うい欲求を抑えて、その上でそばにいてくれるのよね?」
「そういう予測を立てた上で僕をここに呼んだのなら、君には危機意識が欠けていると言わざるを得ないよ」
「ありがとう、伊勢君。あなたのこと、信じているわ」
まるで用意された台本を音読するかのような一方通行的な言葉に、僕はなにも言えなかった。
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