見出し画像

DAOを「中動態のコミュニティ」として考えると、しっくりくるという話

web3のコミュニティに入ってから、1年半ほどたちました。ちょうど自分が入ったころは、web3の期待がかなり高まっていた時期だと思います。毎日ニュースで流れ、まわりでもたくさんのコミュニティがたちあがり、Discordには多くの投稿があふれていました。何か新しいことが始まっている…、そんなワクワク感がありました。

そして今。技術は日々進化しているものの、コミュニティに関しては当時の盛況ぶりはだいぶ落ち着いた感があります。「やっぱりDAOって難しいね…」そんな雰囲気が流れてさえいると思います。

少し寂しくは思いますが、もしかしたら、そもそもDAOって、「熱量高くスピーディーに動く組織ではない」のではないか?という気がしてきました。

「自律型」と表現されるといかにも能動的に動く組織のようですが、むしろ中動態の組織として考えたほうが自然なのかもしれない。もしそうだとしたら、能動態が前提のインセンティブ設計も的外れになります。

もう一度DAOのことを根本から捉え直してみるべきではないか。今回は、「中動態」というキーワードからDAOについて考えてみようと思います。


中動態とはなにか

さて冒頭で出していた「中動態」という言葉。聞き慣れない表現ですが、言語学の歴史を紐解くと、実際に使われていた時代があるようです。ギリシア語にはいまだに残っているとのこと。

中動態とはどのようなときに用いられていたのでしょうか。

主語が動詞によって名指される過程の内部にあるときは中動態が用いられ、その過程が主語の外で終わるときには能動態が用いられた。(中略)私たちは誰かを好きでいるとき、はたして能動でしょうか、受動でしょうか。たしかに私がその人を好きなのでしょう。でも、誰かに惚れることを強制されているわけでもない。惚れることが私を場所として起こっているわけです。

「<責任>の生成」國分功一郎

例として、上記の本にはカツアゲのエピソードも載っていました。
中学生のころ、國分さんは高校生に脅されて、お金を渡したことがあるそうです。(かわいそう…)高校生が脅してお金を取った行為は明らかに能動的です。

でも、脅されて、みずから財布を開き、お金を渡した中学生だった國分さんは「能動的」と言えるのでしょうか?

たしかにお財布を開いて渡しているのですから、その行為だけ見たら能動態です。でも進んで行ったわけではないので、能動的とは言い切れない気もします。おまけに、脅されたという行為は受動態でもありますね。能動態とも受動態とも、言えるし、言えない。つまり、能動態か受動態か、2つだけの態で表現するには難しいのです。

ほかにも、望む、生まれる、寝ている、想像するなどの動詞は、行為というよりはそれが自分の中で起きていて、能動的とは言い難い。おもに、自動詞で表現されるような動詞、これらが中動態で表現されていたようです。

中動態とDAO

「なんかやりたいな」と思って、DAO(コミュニティ)に入ったときの自分もそれに置き換えてみます。

Discordの入会ボタンを押すという「DAOに入った」行為そのものは能動的。でも、入った時点で最初からやりたいことがはっきり決まってはいません。

そのときの気持ちとしては、「web3って、なんだか面白そうだし、新しいことができそう。でも何ができるかは、いまいちよくわからない。だから、自分の興味範囲があるところで、なにかできそうだったら、なにかしよう。」そんな心境です。

これは何かをしてみたいという気持ちが自分のなかに起きている、まさに「中動態」で表現される状態であったと思います。コミュニティには、わりとこういう状態(能動態と言い切るよりも中動態)の方が多いのではないでしょうか。

では、ここからどうやってみずから「行動を起こす」、能動態にもっていけるのでしょう。インセンティブとしてトークンがあればいいのでしょうか、もしくは、誰かが引っ張って声をかければいいのでしょうか…。

自分は、コミュニティ内で茶道に関するプロジェクトをたちあげましたが、トークンが目的ではありませんでした。むしろ、みずからプロジェクトをやろうとはゆめゆめ思ってもいませんでした。なんとなくそんな状況になっていた…、何が動機だったのかも自分でもわかりません。

行為は意志の結果ではない

「◯◯をしたいと思った」から「◯◯をした」と、まるで意志の結果のように行為を語ることは日常的にされています。しかし、その行為をおこすまでに至るには、多くの現象が影響しています。

たしかにわれわれは外部の原因から刺激を受ける。しかし、この外部の原因がそれだけでわれわれを決定するのではない。この外部の原因はわれわれのなかでafficiturという中動態の意味をもった動詞表現によって指し示される自閉的・内向的な変状の過程を開始するのである。

「<責任>の生成」國分功一郎

今、お茶や茶道に関することをコミュニティで進めていますが、数年前はまったく茶道にすら興味がありませんでした。姉からさんざん「茶道は楽しいよー」と言われていたにも関わらず、です。

紆余曲折あってお茶のお店に勤めることになり、お店で茶道の研修があって、しばらく研修受けていてもハマれなかったけど、急に楽しくなり、、今にいたる、という感じです。

同じようなことはたくさんあります。たとえば「ある映画を観にいく」行為も、「観たかったから」という意志だけでは済まされないはず。いろんなところでポスターを目にしていた、人から勧められた、予告編が良かった、そんな意識下・無意識下での要因があり、たまたまタイミングよく時間が合ったから「映画に行った」に結びつくのでしょう。

そう考えると、もしコミュニティで中動態から次へのステップを踏んでもらいたいと思ったら、多くのフックが必要であることは確かですが、それと同時にコミュニティ以外のことも作用していないといけないということがわかります。

インセンティブとなるトークンの価値を高めるのは一要素で、多様なひとびととのやり取り、オンラインやオフラインのイベント…。それらを体験しながら、何かの化学反応が起き、本人のタイミングが重なったとき、新しい挑戦を始める気運が高まっていくのでしょう。

能動的への転換ポイントは

じゃあ、コミュニティができることはなんでしょうか。

もし企業であればマーケティング部門がデータから分析してコミュニティを盛り上げるように設計しますが、DAOではそうもいきません。運営側のようにみえるAdminというロールがついた人々も、メンバーと同じボランティアということが多く、そこまで労力と時間をかけられないからです。

「何かやりたいな」という中動態でいるメンバー自身が、インセンティブを設計をし、イベントをたちあげ、コミュニティを盛り上げていかなければならない。でも、こういった現象を自然に起こすのはとても難しい。

だとしたら、コミュニティに、まずハッキリとした目的が必要になるでしょう。何を目的に、何を達成するために、このコミュニティがあるのか。
そしてその目的のベースに、どういったミッションとビジョンがあるのか。

それが明確に示され、共通の認識のもとメンバーが集まれば、中動態から能動態へと転換しやすい状況が作り出せるかもしれません。中動態であることを前提として、もう一度コミュニティを設計し直す、いまそんな時期にきているのかもしれませんね。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?