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駄々

 幼いころ、有名な映画と素晴らしい映画が当たり前にイコールだと信じていた。映画に限らずアニメや小説、物語、詩や人物。無抵抗に受け入れていた順序が、ひっくり返ったのは、或いは綴じていた紐に鋏を入れたのは、いつであっただろうか。多分私には好きなキャラクターがいたし、好きな音楽もあった。けれど有名無名にかかわらず、それを主張するような共感を求める感情はなかったし、それがなければ生きていけないと、死んでしまうと、冗談でも思うものはなかった。
 春は別れの時期だという。出会いの時期だという。人間の一生は短いから、季節を憶えるのは随分と時間がかかるだろう。それこそマンモスを殺してた頃から季節はあっただろうけど、私そのころ生きてないし。だから出会いとか別れとか、きっといつでもどこでも繰り返している普通のことを、特別に切り取って、取っておくために何か堪えきれずに名前を付けちゃったんじゃないかと思う。だって本当に、出会いも別れも必要や都合で語られたくないもの。語ってほしくないんだよなあ、なんだろこれ、季節だからって言われたら、準備してないと、って、受け入れないと、って、思っちゃうじゃん。私たち嫌なことから嫌って言って逃げられないのに。新しい誰かを互換性の高い代用品として心の穴に埋めてしまう。満たされたように思うのも、泣いたままで生きていくのも、弱さなんかじゃないんだよ。なんだろ、これ。
 地球が丸いことも、太陽が遠くに「在る」ことも、明日の給食が何なのかも、知らずに生きていたら、きっと私はもっとちゃんと世界に向き合っていた。片手間に得た知識が効率だけを高めていって、私は進歩だとか発展だとかに寄与したくはないな。人間は中途半端でいいじゃないか。長生きしても死はあるし、どんだけ食べても食欲は生じるし、悲しいも嬉しいもずっとは続かないじゃないですか。だって人間だし。文明の中で心地の良い瞬間なんてきっと少しもないし、遠くの誰かは非存在の幻想と言われてもこの先ずっと納得して生きていけてしまう。私は世界が好きじゃない。ただ生まれてきただけで、善人のつもりで生きてきたけど、それだけだ。私は世界を好きじゃない、けど、世界は私を気にしてない。だから私も片手間の知識で相手した。どうせなら嫌いになる前に、ふっと消えて、忘れられたいな。人類史になんて、もっと残りたくない。
 五百円玉がちょうどいいのは、お札じゃないからだと思う。お札だったら一番小さいお札になってしまうけれど、少し使い勝手が悪いお札になってしまうけれど、硬貨だから一番大きい硬貨になって、少し使い勝手が良い硬貨になっていると思うの。だから現金が社会からいなくなるとき、私は五百円玉を失うのが一番怖い。ここから先の子どもたちは、ちょうどいい五百円玉を知らないし、五百円がちょうどいいとも思わないかも。数字で見るそれよりも、確かな特別感がそこにはあって、それがきっと大人になるまでに減ってって。それを感じて大人になって。ちょうどいい、の感覚をこどもが訊かれて五百円玉と答えて白ける世界に、私は満足できる気がしない。
 好きの反対が無関心と言われて、作品みたいだなと思う。読者の反対はと訊かれて作品と答えるみたいだなと思う。二項対立で捉える必要がないのに、一次元的な端と端に何かを置いてどっちよりか、何て曖昧な比べ方をして、主観も客観も分けることができないと心のどこかで思ってしまうのに。好きの反対は嫌いです。好きの対極が嫌いではないにしても。
 紙の本だとか、ジェンダーとか、酷い言い方だけど何でもいいと思う、あり方が変わるだけで、存在していることは確かだし、私はそれで何かを変えるつもりはないよ。性があなたをあなたにするのなら、あなたを知った後で良い。紙が文字を本にするなら、文が読めればそれで良い。酷い言い方だけど。もっと自由に、権利も当たり前に得られるべきだ。紙が合うなら、紙で書けばいい。酷い言い方だけど、それで本質が損なわれるだなんて、可笑しな話だから。
 分けてくっつけて、分けてくっつけて。人間とは、なんて大層な書き出しが似合うのは、そんなところだろう。分けて、くっつく。分けられて、くっつけられる。
 イヤホンは絡まりやすくつくられたわけでもないし、アスファルトは夏を必要以上に暑くするために敷かれるわけでもないけれど。人って勝手だから。言葉で言い表せない何かがあるだなんて、それが意味だなんて、勝手に思って書いてるだけで。私もきっと勝手だから。人って勝手なんて、また勝手に言ってしまう。主観よりも勝手だよ。
 海の波を落ち着いてから、つまりあの興奮と感動を無意識に飛ばしたその後で、波を観察すると気づく。波って思っているより不揃いで、周期なんて曖昧で、強さも弱さも半端に切り揃えられた生け花みたいに、だからこそ海だと気が付ける。大きすぎる海だから、小さな歪さも許してしまえる。あなたの持つその不揃いな何かも、おおよそ大きな何かの一部なんだよ。私はそれを変だとは思わない。
 不安も、たった二文字の感情も、自分に素直な日々でなければ朝はいつも苦しいし、夜は暗くてさみしい。聞こえるだろうか、あの頃のあの歌が。パナソニックのCDプレイヤーを机の下においてランダム再生を見つける前の、あの頃の曲を。憶えているだろうか。机の右隅の小さな傷。壁についた破れ目。本に挟んだ栞の代わりのチケット。引き出しの中の手紙。ファイルに入ったままのプリント。借りたままの定規。動かなくなったノートパソコン。折り紙で出来た不確かな作品。廊下にホチキスで留めた画用紙。片方を置いてきた靴下。どこかでもらった缶バッチ。お返しもしなかった誕生日のプレゼント。先のとがった鋏。大きすぎる貯金箱。合宿で拾ってきた石。家の中でさえ、記憶の外に零れていって。私は少し息継ぎをする。眠るように潜っていく。
 無意識な共感に無自覚でいられたなら、私に本を読む必要はない。たった今起こっては否定されるこの共感が、何なのか、知るために本を読む。文章を読む。その先に、繰り返されたその先に、単語帳を抱えて果てるような愚かな杭を優しさで肯定する、追憶のような朧げな光が見えて、その頃には多分、共感しなくても生きていけるんだろう。
 性差別は日本社会に確かにあります。このことをまず認めるべきだ。体には人生が詰まっている。傷を負い、不揃いになり、失い、最後まで取り替えることは許されない。与えられた入れ物を仕方がないで済まそうとして、差別を変わらず続けるのなら、そんな社会は破綻している。私は日本社会が、差別に対し原因を求めることよりも、変化を優先できると信じている。性差別は人間を馬鹿にしている。弱者を差別する社会で大人になった私達が、変えなくてはいけない。
 書き始めてから何年になるだろう。もうそろそろ、初期の作品を文学批評できるだろうか。あの頃の作者は、今の作者とどれほど違うだろう。私も変わったが、作品も変わっていく。あのとき書いていて良かった。これは価値の判断ではなく、個人的に良かった。
 環状線に揺られながら右のドアが開いたり、左のドアが開いたりする。そのたびに80億分の1に少しずつ出会っていて、どこかで会ったことがあるかもしれないなと、不意に悲しくなったりする。私は貴方を憶えていません。貴方は私を知っていますか。数分後には降りる電車は私がいなくても動いていく。
 鳥になりたいって最近聞かないな、と思う。「最近」はすごく曖昧な感覚を切り取った言葉であって、意味もないと言われてしまっても、そうかもと納得してしまうだろうけど。それでもやっぱり、最近聞かない。
 幼児化が進む現代社会で最低限の規範をどう定義するか。子守りの機能を他者に託して言いたい放題、やりたい放題。世間体を気にしなくなった大人たち。「新しさ」をすんなりと手にしてしまった不幸は、次の世代に何を残すのだろう。人類は進歩するだろう。けれど、社会は後ろ向きに歩いている。
 夜ふかしをしているとき、私は考えなしになる。凡庸な悪を抱えずに生きてこられたのは心が健全だったからだろうか。理性と知性が備わっていたからだろうか。夜ふかしをしているとき、私は考えなしになって、それでも人を愛している。だから罰も許しも与えずに復讐を選ぶやり方が考えなしになってはいないか、夜ふかしをしながら、世界の今を他人事のように悲しんでいる。眠ってしまえば、忘れてしまうから。
 書くことも、考えることも、伝えることも。すべてがすべて、余裕の産物で、生きていくためには必要がないことだ。それを仕事に、つまり生きていくための稼ぎに、生業にするのは、やはり幾らかの余裕と、環境を含めた運とが味方をしなくてはいけない。独りで余裕を極めるよりも、社会の中で必要に迫られて書く物を、むしろ小説と呼び、時間をかけて物語る行為こそが、少なくとも読み手を想像する書き手になくてはいけないだろうかと思える。言葉はそうして役割を果たしていると、余裕の中で思える。
 桜の花びらを懸命に拾い集めている子どもたちは、何年か経ってから桜を見て、きっと花びらの感覚も匂いも色も、忘れてしまわずに、思い出さない思い出となって、彼らの生を支えていく。春は単調だった日常を変えていく。その喜びと緊張を全身で受け止めていたあの頃に、桜があって、今も同じ雲を見上げていることの美しさが、葉桜となってもまだ、時を貫いている。
 特定の作品を褒めたり貶したり、憧れたりしてしまうことで、その作品を消化しようとしてしまう、その傲慢さが眼を曇らせる。価値も意味も分かりっこない。作品の一面しか見えないし、一面にしか興味を持てないんだから、すべてを悟った上で分からないと断言できる。そういう作品に出会ってください。その人生でたった一回あるかないかの出会いを経て、あなたはきっと作品を対象化せずに摂取できる。消化も出来ずに苦しんで、苦しんで、その先にあるきっと美しい何かと、あなたは顔見知りになる。そこで交わした言葉だけが、あなたの言葉を作品にする。だから想像力の外側の存在を大切にして。好奇心を理性で殺さず、生かしたままでついてって。
 今になってやっと、人生で最初に見る駿さんの作品がもののけ姫でも、ラピュタでもなく、ましてナウシカでもトトロでもなく「君たちはどう生きるか」である子らが生じる可能性があることに思い当たって、初めて怖くなった。この作品は物語であって、今までの小説的な作品とは違う、我々に全てを放り投げて観察している作品だ。いやその点では同じか。可能性を現実に擦り合わせ制限することなく、制限されることを厭わず、寧ろその芸術表現の作り手とテクストとの不均衡な釣り合いを積極的に取り入れ含みを持たせたこの挑発的で諦観に満ちた作品を、そして反省と戸惑いに対し問うことで答えを求めた作品を、彼らの人生の最初の駿さんの作品として鑑賞するこの先の多くの子らを思って、私は恐ろしくなるのだ。この作品は、私のための作品ではない。この作品は駿さんのための作品ではない。この作品は我々のための作品ではない。この作品は、駿さんのことも知らない子らの内の、あの破壊的な、青春の前段階の厳然たる疎外感を掬ってしまう。そして問うのだ。大人の誰もが知らない問いを。私はこの作品が恐ろしくなった。だからこそ、私はこの作品を肯定することで悦に浸る自己を省みて微笑を禁じ得ない。
 この長い駄文の繰り返しを、文の体は最早なさない長文を、私のせめてもの抗いとして、この先の繰り返される批評の一つの面汚しとして、ここに置く。意味のある文章を書いた気はしないでいたが、意味はあるようだ。


2024.5.18
駄々
雪屋双喜

随分と長くかかった。そのために書き始めた物ではないが、終えて見ればそのためにあるのだ。

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