掬われた足元

 いつからこうしているのだろうか。長い間そうしていたようにも思えるが、もしかしたらさほど時間が経っていないのかもしれない。手を伸ばしてもなお空いている距離をぼんやりと眺めた。

 初めて彼女を見かけたのは、西の空に半分沈んだ太陽が茜色に染めた駅前通りだった。桜がすっかり散って濃い緑を繁らせた樹の下のベンチで佇んでいる彼女を見て美しいと思った。誰かを待っているのか姿勢良く座り真正面を見つめるその瞳は大きく印象的だった。
 その日から何度かこの通り沿いで姿を見かけた。知り合いに話しかけられているところに出くわしたこともあり、その時に彼女の名前を知ることになった。見かける度に心が惹かれ、会えない日にも想いを募らせた。しかしこちらから声をかける勇気はなく、彼女に気取らせないようにちらりと目をやるので精一杯だった。でもいつしかそれだけでは満足できなくなり、名前を呼んで振り向いてほしい、できることなら触れてみたいとさえ思うようになっていた。

 少し前までは引き返せると思っていたのにもう身動きが取れないところまできてしまった。もう一歩、もう一歩と近付いてしまったのだ。
 彼女に聞こえないようにそっとその名を呼んでみると偶然にも振り返って目が合った。急な出来事に焦り彼女の後ろにある赤紫の紫陽花を眺める振りをしたが、彼女はこちらの態度を意に介さず紫陽花に視線をやるとその間に滑り込んでいく。ちらりと見えた横顔が誘っているようで慌ててその後を追う。手を伸ばしその柔らかそうな体に僅かに触れたと思ったら、ガチャンと金属音が聞こえた。

 ぽつり。見上げると重く垂れ込めた雲から滴が落ちてきた。今日は夕方前から雨になると朝の天気予報で言っていたことを思い出し、干した洗濯物はもう一度洗濯し直さなければならないなと諦めた。
 伸ばしたままの自分の手の甲を見つめる。身動きが取れないままどれくらい時間が経ったのだろう。こんなところでこうしていても、もうどうにもならないことは気付いている。どれだけ手を伸ばしても、彼女には触れられない。でも、やはりここからは動けそうにない。

「こんなところでなにをしてるんですか?」

 不意に背後から声をかけられる。首だけ回すと不審なものを見るような年配の男性が立っていた。

「あ、あの、丁度よかったです。すみませんが、手伝ってもらえませんか?」

 眉間に皺が寄って更に不信感を与えてしまったことに気付いたが、このチャンスを逃してはならないと必死になった。

「はまって抜けなくなってしまって……この、側溝の蓋、外れかけてたみたいで」

 膝を着くように座り込む姿を改めて見てやっと納得したようだ。

「なんだってこんなところにはまったんですか」

 腕を引っ張り上げながら老人に問われる。紫陽花の向こう側、少し影になったところに光る瞳がこちらを伺っている。もう手は届かないだろう。

「足元をちゃんと見てなくて」

 そう発した自分の声に、彼女の「にゃあ」という声が重なった。



第100回フリーワンライ(2016.6.12)
お題:届きそうで届かない

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