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待つこと、通うこと、信じること

スマホに配信されたメンバー表に今日もその名前がないことを確認し、選手バスを待っていた場所からそっと離れる。

スタジアムに入り、他にすることがなくなっても、なんとなく足は座席に向かずに売店が並んでいるあたりをうろうろする。

選手ウォーミングアップのアナウンス、そして大好きなはずの選手紹介のBGMが聞こえてきても、通路からぼーっと外を眺めたまま。選手入場の直前になって、ようやく席につく。

推しのいない選手バス。推しのいない選手紹介。推しのいないピッチ。開幕して2か月、ホーム戦は今のところ皆勤なのに、ここでいちばん見たい選手をいまだに見ることができない。


試合が始まれば、自然と観戦モードに切り替わる。応援するチームの勝利を祈り、手をたたく。ボールの行方と選手たちの動きに集中する。なかなか上達しないカメラを構えて必死でシャッターを押す。そこに雑念の入る余地などない。はず。

それでも、試合終了の笛が鳴ってしまうと。本音を言えば、推しの不在がいちばんきついのは勝ち試合の後かもしれない。あの歓喜の輪のどこにもいない。うれしいのに、喜びきれない。

チームにとって苦しい滑り出しとなった今シーズン。そんな中で待望のホーム戦初白星を挙げたその試合。終了直後の選手インタビューの途中で私はいたたまれなくなって席を立ってしまった。今までどんなひどい負け試合の後でも、選手の姿が見えなくなるまで見送っていたのに。

久しぶりに現地で味わえる勝利がうれしくないわけがない。めちゃくちゃうれしいのに、そこにいられなかった。


なんなんだろこのめんどくさいの。

「寂しさ」なんてかわいらしいものなのか。

なんで私ってこんなにねじ曲がってるんだろう。

選手個人じゃなくてこのチームが好きなんだと思っていたけど、違ってたのかな。


楽しんでおいで、と毎回スタジアムに送り出してくれる家族。大人なしで留守番させるには不安な年齢の子がいるので、夫はときには自分の行きたいところを諦めて家にいてくれる。

勝っても負けても楽しい土産話をしたいのに。二言目には推しがいない推しが見たいどう気持ちを保てばいいの、と、そんな愚痴ばかりが出てしまう。申し訳なさと罪悪感。


試合に出られないともちろん悔しい。でもやることは変わらない。思い出すのはいつか雑誌で読んだ彼の言葉。師(推し)の言葉偉大なり。結局自分も同じだ。めんどくさい感情を抱きながらも、やることは変わらない。

必要な家事と仕事を終わらせる。荷物を用意する。家族に感謝して、元気にスタジアムに向かう。

思えば、初めて彼を現地で見たのも初観戦から2か月後だった。メンバー表に名前を見つけた瞬間にこみ上げてきた、踊りだしたくなるようなうれしさが忘れられない。

チャンスが来たときに準備ができている状態でいる。これも別の記事で読んだ師(推し)の言葉。通い続ける日々は空振りじゃない。あの日のうれしさにまた会うための準備だ。


踊りだしたい気持ちを抑えながらファインダーをのぞく日は、きっとすぐそこまで来てる。

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