諦めること

入園前の12月頃、入園予定の親子が幼稚園で先生と一緒に過ごす、というイベントがありました。

幼稚園のおもちゃで自由に遊んだり、手遊びをしたり、工作をしたり・・・といった内容で、時間も1時間程度の短いものだっだと記憶しています。

最初からぐずり気味だった息子。詳しい経緯は忘れてしまいましたが何かが気に入らなかったことが決定的となり、途中で部屋を出てしまいました。そのまま昇降口近くに飾ってあった大きなクリスマスツリーのところで遊び始め、最後まで皆のいる部屋に戻ることはありませんでした。

息子に付き添いながら私は、他の子も誰か廊下に出てきたらいいのに、と思いました。でも、ずっと廊下を見ていたけれど、誰ひとり部屋から出てきませんでした。

誰かひとりでも出てきてくれたなら、うちだけじゃないってほっとできるのに。その子もここに来てくれたなら、その子のお母さんとちょっと愚痴り合ったりして、もしかしたらお友だちになれるかもしれないのに。どうして他の子は誰も出てこないんだろう。誰かひとりでいいのに。今日ここに100人近くの子どもがいるはずなのに、どうしてうちだけが楽しく過ごせないんだろう。どうしてうちだけなんだろう。

そんなことを考えながら、クリスマスツリーのそばで泣きました。


約2年後の年中の冬。息子を含む誕生月の子どもたちの誕生会がありました。

年少の誕生会はクラス単位で行いますが、年中からはホールに集まり、学年単位になります。誕生月の子どもたちは、他の子たちが迎える中ホールに入場し、ステージに上がります。その後、簡単なインタビューや保護者からのメッセージの時間などがあります。

息子がステージ上でおとなしくしているとはまったく思っていませんでした。ただ、他の月の誕生会では自席でニコニコしながら見ていると先生から聞いていたので、どんな形であれ自分が主役の誕生会も楽しんでくれるかなという気持ちはありました。

ところが、現実は私の想像とはかけ離れていて。まずはホールへの入場を全力で拒否。先生がおんぶでなんとか連れてきてくれましたが、今度はステージ拒否。最終的にホールから逃走し、すぐ外にある小さな遊び場から動かなくなってしまいました。

少しの間、先生が付き添ってくれたけれど、誕生会の手伝いでホールに戻ってしまい、私と息子だけになりました。小さな滑り台でずっと遊ぶ息子。私は少し離れたところにしゃがんで、その光景を眺めていました。

日差しの暖かい日でした。ぼーっと息子を眺めながら、人目を気にせずに遊ばせられてありがたいな、と思いました。公園に連れて行っても、奇妙な行動をしたりルールを守れなかったりで私の心が休まるときがないので、こうして貸し切り状態で遊べることがありがたいな、と。

ホールの方からは、ママから誕生月のお子さんへメッセージを読む声が聞こえてきました。息子と私だけがその中に入れず、こうして別の場所にいる。この状況に対し「私たちらしいな」という考えが頭をよぎりました。そして、あのクリスマスツリーのそばで泣いた日のことを思い出しました。


「他の子みたいに○○できるようになってほしい」、「年相応に○○してほしい」・・・。こんな願いを今までいくつ持ったことでしょうか。ささやかな願いのはずなのに、それらの多くは叶いませんでした。願って、叶わない現実を知って、諦めて。そのサイクルを日々繰り返すうちに、願うこと自体少なくなってきた気がします。

あの入園前のイベントのときのように「どうしてうちだけ、みんなと同じように誕生会に参加できないんだろう」とは思いませんでした。「楽しく過ごしてくれるかも」という期待はありましたが、「みんなと同じように」とは最初から願っていなかった。願うことを諦めていたのだと思います。

諦める、というのは前向きな響きではないかもしれません。でも、叶わないことを受け入れる、と言い換えたら、成長したようにも思えます。この変化が良いことなのか悪いことなのか、私にはよくわかりません。ただ思うのは、この「諦める」という作業は、私が障害児の親として生きていくために必要なことだということです。

クリスマスツリーのそばで泣いたイベントの日のことも、ママたちのメッセージを外で聞いていた誕生会のことも、私はずっと忘れないでしょう。できれば、息子にも憶えていてほしい。断片でいいから。



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