見出し画像

『シネフィル・バスターズ』 システマ・アンジェリカ×劇団くるめるシアター 6月企画公演

2024.06.22
ヘッダーは公式Xより引用

https://twitter.com/kurumeru_cine


簡単なあらすじ

マセダシネマ倶楽部は見る専のサークルだが、部員と何かやりたいという部長の提案から学生映画を撮ることになる。そこにちょうど、新入生の川崎貴が部室に現れ、映画こそ詳しくないものの彼が撮る自主映画は衝撃的。川崎に負けないくらいの映画を撮ろうと奮起するマセシネは、秋のマセダ祭で大スクリーン上映することを目標に創作に励む。監督は部長。批評家が脚本。音声をエモ、ジャンルが編集、任侠とSFは役者を担当する。皆経験はないながらもそれぞれ力を合わせなんとか映画を撮り終える。しかしマセダ祭運営キャストに書類を提出していなかったためマセダ祭での上映は却下される。そこで一度は上映に後ろ向きになった部長だったが、部員たちの「映画は上映してはじめて完成する」という意見により、マセダ祭の閉会式にてゲリラ上映されることに。そこでは今回撮った映画に加え、かつてのマセシネ部員が作った学生映画も同時上映され、そこにはかつてマセシネ部員だった大学の助教もおり、映画の中では自分が当時のままの姿であることに感動する。混乱の中部員たちの卒業後の進路が文字で映される…

感想

正直に言うと、同年代でこれを作った奴がいる事実が悔しい!

ただ笑いたい、ただ学生である時間を懐かしみたいと願う観客を許さない目線がそこにある。ただ助教の羨望を叶え、夢を映画の中に閉じ込めるだけでは済まさない。
ラストのシーン。マセシネの歴史を背負った映画たちを背に、部長が部室に一人何やら考えている。彼は、ただ部員と映画を撮りたかったのであって、上映にはやや後ろ向きだったのだが、批評家にその理由を問われた時「上映したら、本当に全てが終わってしまうような気がして」と言う。彼は、部員の中で一番部員が大好きで、学生生活が大好きで、映画を作るのが楽しかったのだろう。だからこそ、割り切れない、大人になりきれない。他の部員はみな就活して、割り切って次に進む。

夢から抜け出さなくていいのは川崎貴ほどの才能がある人だけだ。ただの凡人は割り切らないと。そんなことはわかっている。学生演劇は(そしておそらく学生映画も?)友情と恋愛が全て。どこかで分かっているはずだけど、時々それ以上に自分はのめり込んでいるのではないか、自分の生命を吸われるほどの、何かを賭けているのではないかと思わされる。いやいや、学生演劇にそんなにかけてどうする。違うだろ。と我に帰る。ほとんどの学生が我に返って、あ、いけないいけないと思い直し、就職して、学生生活のことは良き思い出として昇華していく。そこで、目を覚ませない人がいたら??そんな未来を残酷に、それぞれの行く先を描いた名作であった、、、、

ありきたりな死にたみとは違う。最近の演劇の中でダントツで一番若者の刹那的な死にたみを描いている。例えば、SEIRENの新歓公演では「お金がないから大学に行けない、死にたい…」「バスケやってたのに足を怪我してもうできない、死にたい…」のような若者が数人登場して、最終的には歌のパワーとミュージカルらしい愛と希望によって笑顔で終演するのです。それを見て私は「若者の死にたみを安売りするな!!」とやや憤慨ぎみだったのです。

違うんだよ。今が楽しくないんじゃない。楽しすぎるから。楽しすぎるから死にたくなるんだよ。自分が一番脂の乗っている時期だと自覚して、ここから先は枯れていくだけなのかと思うと凄く辛いんだ。これを分かってくれた作品に出会えたのは初めてだ。未来に希望が見出せない若者ってこういうことなんだよ。静かな叫びだよ。

とはいえ、ラストシーンまではコミカルに軽快に、ただ笑って見ていられたんだ。だからこそ油断してた。部長と批評家の好きな人被り、からのまさかの奴がかっさらう構図。普段はただ明るく日和見なジャンルがここぞという時に妥協せず夕日のシーンが撮りたいと言う。川崎貴の憎めない後輩感、閉会式で感極まるマセダ祭実行委員長。どれも解像度が高い青春。好きな映画を共有し合い、人間関係に揉まれ、でも同じ方向を向いて作品を仕上げる。楽しいに決まってるわ(逆ギレ)
ただこの作品を作ったのは学生のはずなのにどこかふっと大人の目線が入ることがある。それは助教の発言であったり、助教を演じていた主宰本人の目線によるものかもしれない。というのも、これらの青春は本当にかけがえのないものだし今しかないものなのだけど、それに気が付くのはそれこそ卒業して3年くらい経った時ではないか。学生の今、もうそのノスタルジーに浸り、この尊さを作品にしてしまおうとは。私も学生だからわからないこともあるけれど、なんかこうすごく「25歳の目線から見た学生」という感じがしたのだ。うまく言えているか分からないけれど。
恐らく脚本家・高野希が映画が好きな理由は、映画の中では時間は永遠で、何回でも巻き戻すことができる。映画の中では大人にならなくていい。映画の中なら誰にでもなれるし不都合なものはカットできる。やり直しもきく。人生が映画だったらいいのに(そこまで思ってないか、ごめん)そういう映画への愛憎も感じた。

所詮は大学生のおベンチャラですから____確かにそうだ。でもそうやってあはははとふらふらっとしてる奴ほど達観していて、実はすごく現実主義だったりするよね。逆に、部長のように生真面目に真剣に事柄に向き合っていると生きづらい世界なのかも。私は夕日をバックに撮りたいと言われても近所から苦情が出ているなら止める派だから部長に共感する点がすごく多かった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?