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ヒトリエが聞けない

3年前の4月5日、大好きなバンドのボーカルが死んだ。急性心不全だった。まだたったの31歳だった。死ぬなんて本当に考えてもみなくて、青天の霹靂、というのはこういうことかとぼんやり思った。いや、その情報を知った瞬間はそんなことすら考えられなかった。

ヒトリエというバンドは、もともと有名ボカロPだったwowakaがバンドサウンドをやりたくてはじめたバンドだ。あの米津玄師とボカロPの中では双璧を担っていた、と言えば、よく知らない人にも人気が伝わるだろうか。wowakaさんのボカロ曲が好きで、収録されたアルバムはもちろん買っていたし、もともと邦ロックも好きだったので「あのwowakaさんがバンドを組む」、ということでヒトリエの前身、ひとりアトリエの頃からずっとどんなバンドなんだろう?と注目していた(当時まだ高校生だったので東京のライブには行けなかった)。そしてギターにシノダ氏が加入し、バンド名をヒトリエに変えた後、私にもヒトリエのライブを生で拝める機会があった。2013年の時だったと思う。その時はまだ地元の大阪に住んでいたのに、なぜかわざわざ福岡で初めてヒトリエを見た。柵もまともにない小さいライブハウスだったけど、初めて生で聞くヒトリエの音楽は、鋭くて、精密で、激しくて、一歩間違えれば全部崩壊するようなアンバランスさの上でみんなが熱狂していて最高だった。終演後、フロアに残っていたメンバーに声をかけ、wowakaさんに話かけることも出来た。ステージで見るよりよっぽど小さくて、私とあまり背も変わらないくらいでふわふわした、つかみどころのない穏やかな青年という印象だった。勇気を出して握手を求めた。快く差し出してくださった手に触れた瞬間、

うわ、と思った。

すごく力強かった。このふわふわな見た目から想像できないくらい強いマグマみたいなエネルギーや思考が詰まっているような、そんな気がした。だからあんな曲が作れるのかな、とどこか納得したし、本当に驚いた。

でも、今はもうあの手はこの世のどこにもない。


2013年11月4日、wowakaさんの誕生日だった渋谷eggmanでのワンマンライブで、メジャーデビューが発表された。最初はボカロ畑から邦ロック界に来たヒトリエへの目は冷めたものだったと思う。実際、その年のCOUNTDOWN JAPANの客入りは見てられなかった、と人づてに聞いた。だけど、どんどん新譜を出し、ツアーをやり、フェスに出て、次の年は同じCOUNTDOWN JAPANの会場が埋まった。私はというと、ヒトリエのライブが大阪であれば必ず行った。出る新譜は全部買った。どんどんライブに来る客も目に見えて増えていった。うれしかった。同時に、彼らの音楽に、スランプも、その壁を乗り越えた感覚も、すべてが乗ってきていた。一緒に生きている気がしていた。


話は変わるが、その後私は大学院に進んで、修士2年の時、研究留学をした。と書くと大変すごそうに見えるが、留学したいと駄々をこねた割には、ほぼ研究室の教授のコネだし、実際にやっていたことと言えば、現地の博士課程の学生の手伝いだった。

だけど、その手伝いすらとてもじゃないが満足にできなかった。実験はひとつも再現できないし、ミーティングの英語はなにも聞き取れないし、ランチの時頑張って話しても、後から隣の研究室の日本人ポスドク伝いに、「で、彼女は結局何を言っていたの?」とほかの生徒が話していたことを知った。英語も出来なければ研究も出来なかった。なんのためにそこに存在しているのかわからなかった。日本の自分の修論をほっぽり出して、ここまで来たのに、どうしよう、どうしようと、焦りばかりが募っていた。当時は日本の自分の研究室でも人間関係で大きな問題があり、私は逃げるように留学していた。日本に帰りたくもなかった。なにもかもが中途半端で、宙ぶらりんで、孤独だった。

そのときヒトリエの新曲が発表された。YoutubeでMVを見た。狭いマンションの一室の、2段ベットの上、スプリングが直接当たるようなぼろぼろのマットレスの上で私は再生ボタンを押した。

ひとりきりでも続く生 夢の終わりを告げる声
誰も居ない道を行け 誰も止められやしないよ

また一歩足を踏み出して あなたはとても強い人
誰も居ない道を行け 誰も居ない道を行け

涙が止まらなかった。

わたしは孤独だった。外国で粗悪なベッドで寝転がることを受容したままになっているくらいには。その晩何度も、嗚咽がルームメイトに聞こえないように布団を被りながら聞いた。孤独な私を孤独なままでいさせてくれた。あの時の私にはこの曲だけが支えだった。

ぼろぼろの留学を終え、やけくそで修論を出して発表をし、なんとか修士号を手に入れた私はヒトリエのライブに行った。ポラリスが収録されたアルバムのツアーだった。何度も通った大阪心斎橋のBIG CATだ。卒業後は就職で関東に行くことが決まっていたので、BIG CATでヒトリエを見るのも最後かあ、と思うと感慨深かった。ポラリスも良かったが、他に収録されていた「青」という曲がとても良かったことを覚えている。これまで何か架空のキャラクターを通じて感情を吐露していた彼の音楽が、初めてむき出しの生身で出てきたような、そういった新しさと危うさがあった。ここからだな、と思った。ここからまた新しいヒトリエの音楽が聴けるんだ、とワクワクした。


それは新入社員研修中の昼休みだった。大阪でいつも一緒にヒトリエのライブに行っていた友人から、文章になっていないLINEがたくさん届いた。「どういうこと?」と聞くと、「Twitter見て」。とりあえずTwitterを開ける。

「ヒトリエ・wowakaさん死去」

は?

いや、え、どういうこと?確かに、数日前、急遽ライブが中止になったのは知っている。インフルエンザにでもなっちゃったのかな、と思って流していたけど、え、まさか

必死になってTwitterをスクロールすると、たくさんの言葉が流れ込んでくる。なんだこれは。まるで、ほんとうに、死んじゃったみたいだ。わけがわからなくて、だば、と涙があふれてくる。隣の同期がギョッとしてこちらを見る。人事担当やほかの同期もこちらを見ていた。「どうしたの」「…好きな、バンドのボーカルが死んじゃった」きょとんとしたような、微妙な雰囲気だった。誰かが自分も好きだった芸能人が死んでちょっとショックだったと言う。そして昼休みの歓談に戻る。会議室に笑い声が響く。そのあと、午後の研修はよりにもよって、AED講習だった。wowakaさんの死因は急性心不全と書かれていた。クソみたいだった。

私が大阪でいったツアーは完遂されることなく、ツアーファイナルの今は無き新木場STUDIO COASTでの公演が、追悼イベントになることが発表された。イベントはもともとの公演のチケットを持っている人しか入れなかったが、幸いにも私は関東に引っ越していたので、せめて献花だけでも行こうと決めた。何よりも、誰でもいいから、wowakaさんのことを知っていて、好きで、私と同じ混乱の最中にいる人に会いたかった。関東に来たせいで、もともとヒトリエのライブに一緒に行ったことがあるような友達とは会える状況ではなかった。

誰にも言えないことがあまりにも限界で、一度だけ会社の歓迎会終わりに、音楽フェスによく行くという人にwowakaさんのことを話してみた。
「え、じゃあ、このあとのカラオケでヒトリエ歌っていいよ(笑)」と言われ、なんて返せばいいかわからなかった。そうか、好きなバンドのボーカルが死んだなんて、普通の人にはどうでもいいことなのかもしれない。まさか何週間も家で一人になったら泣いているなんて、予想もしないんだ。

私はそれから、ヒトリエの話をすることはやめた。だから、追悼イベントに行きかった。


そして追悼イベントの2日前の夜、母方の叔母が死んだ。

胃がんだった。発覚から2週間足らずだった。叔母は結婚しておらず、祖父の家に行ったときはいつも遊び相手になってくれた。告別式は追悼イベントと同じ日だった。

バチが当たったのかな、と思った。

叔母は未婚で末っ子のため、両親の介護の後、私たち兄弟が叔母を看取る可能性があった。両親はともかく、一緒に住んでおらず、精神障害を抱えている叔母の介護はハッキリ言って嫌だった。それについて、文句は言ってはいけないと思いつつ、自分の将来像かもしれないと思いつつ、友人などに将来の不安として愚痴っていたりした。小さいころあんなに可愛がってもらったのに、そんなことを言ったから、叔母さん怒ってしもたんかな。そんな風にも感じた。

だけど、いざ叔母の遺体に触れたとき、ぐにゃっとした、ゲルのようなものに触れたとき、ああ、もうここにはいないのだと理解した。これは生きていない。ただの水がたっぷり入った塊だ、と。叔母さんはそこにはいなかったけど、母や兄の泣く姿を見て、私もようやく「さよなら」と言えた。
そうか、お葬式は残された人間のためにやるものなんだ。

そう理解し、そして心のどこかで、「ああ、wowakaさんもあんな風に冷たい塊になって、燃やされちゃったんだ」とぼんやり考えていた。彼もこんな風に弔われただろうか。確か、甥っ子か姪っ子さんがいるんだっけ。その子が産まれたから、「リトルクライベイビー」という曲が出来たんだ。だけど、その子はきっと、そのことをまだ理解できるような年じゃないまま、彼とお別れしたのかな。勝手な妄想でそんなことを考えると、また涙が止まらなかった。

そのあとは、普通に新入社員らしく仕事に追われた。ヒトリエは3人のまま活動することが発表された。よかった。でももうヒトリエの曲を聞くことが出来なくなっていた。前まで楽しい気持ちも、悲しい気持ちも、体が泥みたいに動かなくなっていた時も聞いていたのに、もうそういう風に聞くことは出来なかった。



あれから3年経った。

ヒトリエは3人で、フルアルバムを作るまで精力的に活動していた。それでも聞けなかった。3人のTwitterもヒトリエ公式アカウントもフォローしたままだったし、インタビューも読んだ。正直なことを言うと、昔eggmanでシノダさんの「テノヒラ」を聞いてから、彼の歌声も好きだし、イガラシさんやゆーまおさんの作曲もどんな感じなんだろう、とすごく気になっていた。これまで彼らが作ったり気に入っていると言っていた曲は、あれとか、これだから、こんな曲かな、それともまったく予想もしてないような曲なのかな。そうやって、考えると少しわくわくするけど、それでも再生ボタンが押せなかった。

だって、再生ボタンを押したら、3人でステージに立つところを見たら、いなくなってしまう。

本当に、もうどこにもいないということがわかってしまう。

こんなことに意味なんてないとわかっているのに、いつまでもどこまでも、閉じ込めておきたかった。あのBIG CATで歌っているwowakaさんと3人を、自分の中だけでも閉じ込めておきたかった。

3人も、Twitter上で見るほかのファンも、私を置いてどんどん前を向いて走って行ってしまうように見えた。わたしはその遠くなった背中を、うずくまったままずっと眺めていた。

だけど、もうそれもおしまいみたいだ。



きっかけをくれたのは、ヒトリエと同様に、ずっと好きなcinema staffというバンドだ。


cinema staffは出身の岐阜県で毎年4月にOOPARTSという音楽フェスを開催している。そのフェスに、今年はヒトリエが出演することが発表された。ラインナップを見たときは比喩ではなく膝から崩れ落ちた。とうとうこの日が来てしまった。しかも私が断れない形で。おそらく最善の形で。そうだ、私は誰かに背中を押してもらいたかった。さよならと、今生きている大好きなアーティストを見るために、誰かに荒療治でも奮い立たせてもらいたかった。それを、ヒトリエと同じくらい好きなcinema staffに用意された。チケットは最速先行で取っていた。行くしかなかった。


そういうわけで、来る4/17にヒトリエを見ることになった。

実をいうと、結局今もまだヒトリエの曲は、4人のものも3人のものも聞けていない。もうそれでいいかなと思っている。その場で感じたことがすべてだと思う。だって、きっとそれでも、"あの" 3人なので。wowakaのそばで、彼の音楽を一緒に作り、一人一人が半端ではない個性とスキルを持った3人だから、きっと、大丈夫。楽しくて、忘れられない日になるはずだ。とても怖いけど。

私は、まだ、ヒトリエの音楽が聞けない。


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