見出し画像

山本文緒さんの「無人島のふたりー120日以上生きなくちゃ日記ー」

昨年膵臓癌で逝去した山本文緒さんの「余命4ヶ月」を診断されてからの日記。

ステージは4b。抗がん剤も、余命を少しばかり延ばすほどの効果しかないとのこと。おまけに抗がん剤が合わず、すぐに緩和ケアを選択することになったとのこと。

「コロナ禍で、とつぜん夫と無人島に流されてしまったよう」と作者は言う。
「こんな日記を書く意味があるんだろうか」とも。
むしろ「120日後に死ぬフミオ」というタイトルでツイッターやブログでリアルタイムで更新したりするほうがバズったのではないか、とも冗談まじりに言う。
しかし「それは望んでいることからずいぶん遠い」と。

それが「山本文緒という作家の矜恃」なのだと思った。

驚かれたり応援されたりをリアルタイムでやりたいわけではない。
無人島で夫と二人で。静かにお別れを言いながら、自分の気持ちを描き続ける。
そして(できれば)出版する。自分がそれを読むことはできないだろうけど。
彼女は最期の最期まで、わたしの知っている「山本文緒」でいてくれた。
これが正直な感想です。

向き合うことの怖ろしさも制御された文章で。
体調のいい日にお気に入りのカフェに行けたことを喜び。
「せめてもう一冊本を出したい」と彼女は思う。
「自転しながら公転する」のあとに短編集を出す予定だったが「短編集に入れる書き下ろしの1編」を書くことができない。
「書き下ろしの1編は書けないけれど、生きているうちに出版できないか」という希望のもとで生まれたのが「バニラさま」だ。
なんていうか、「バニラさま」を読んだときのわけのわからない凄みのわけがわかったような気がした。

訪問診療、訪問看護が介入し、介護保険の申請を行う。そして同時に人生の片付けを行う。
「でも、これはもうできない」と思うこともある。
わたしは終末期医療も担当するケアマネなので、こんな状況に遭遇することも少なくない。
これは貴重でみずみずしく、美しいほどに感情の制御された闘病の記録だと思う。
もちろん、ここに描かれていることだけではないのだろうけれど。
それでも「この感情のうわずみ」が記録されていて、本当によかったなと思った。

訪問看護のホットパックに気持ち癒されたとか。主治医にたくさん話して安心したとか、そういうくだりを読むと、そういう場所に「わたしも関われてよかった」という気持ちにもなれた。

もう、これ以上は継続できないかも、という部分で「一次会は締めとさせていただきます」とユーモラスに書かれているが。

このあたりの部分がわたしは一番好きだ。
思い出すことや。
書くことへの自分の気持ち。
そして、読者への感謝。
どれもが美しい人生への思いで溢れている。(もちろん、それだけではなかったことは、読者として十分すぎるほど知っているけれど)

わたしたちが彼女から受け取れた、彼女の才能とかがやきと、素敵な文章。
ほんとに最後の最後まで、山本文緒は、山本文緒という作家だったんだな。

彼女の最後の作品をこうやって見届けられて幸せだった、と心底思いました。



追記:同じ膵臓癌の女性のクライアントとよく「本」についての話をしていました。
とっつきにくい彼女とわたしの共通の話題は本くらいで。
「自転しながら公転する」あたりで、山本文緒さんの話をすることが多くなりました。
そして、この本の時系列で、ふたりが同じ頃になくなったことがわかりました。
不思議です。
享年もいっしょでした。

物語があるかぎり、わたしたちは「物語と通して、誰かといっしょに」生きていくことができる。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?