衡平な選択⑤

【始動】
 まだまだ冷たい空気が肌をなでる中、梅の花がぽつぽつと咲き始めている。黒のダッフ ルコートに身を包んだ少女が古びた工場の前に佇む。工場の入り口は土砂で汚れており、 それは車道にまで続いている。煙突からは黒い煙がもくもくと出ており、目には見えない もののこちらまで不快な空気が漂ってくるのを感じる。少女はいつも通り念じた。幸喜の ことを思い出す。すると煙突の上に巨大な玉が浮遊する。少女は一呼吸置くと、身を翻す。 目からは一筋の涙がこぼれている。ドンッと音がなり煙突がへし折れる。どこからか警報 がなり始める。ぽつりぽつりと野次馬が集まりだすが、少女の姿はもうそこにはなかった。
 遥の「仕事」はこれで十件目だった。いつものように匿名掲示板を覗き込むと、また数 件の申し込みがあった。認知度が少しずつ上がっているような気がする。約束のノルマは 達成した。今日は、Kからフェーズ三に移行する旨が発表されるはずだった。自分の呼気 からでるCO2を自由に固体化する段階がフェーズ一、車や工場などの外部のCO2を自由 に固体化する段階がフェーズ二、そしてフェーズ三は…… 。そのタイミングで電話がなる。 Kだ。
「これから事務所に来て下さい。大事な話があります」
 事務所に着くと、くるみちゃん、てん、そしてKがいた。Kが口火を切る。
「遥ちゃん以外にはかねてから話していた通り、地球温暖化、いや気候変動は人類が直面 している最重要課題となっている。私達は遥ちゃんの能力を最大限に活かすためにこれま で調査してきた。IPCCの第四次評価報告書の段階では、気候変動に対する懐疑論者も メディアを賑わせていたが、AR5つまり第五次評価報告書が出ると彼等も息をひそめた。 二〇二一年から二〇二二年にかけてAR6が公表される手筈となっているが、今や一刻の 猶予も許されないことは、一. 五度の特別報告書からも明らかである。私達が行うことは粛 清、ただそれだけである。駒はそろった。私達が期待していた救世主。改めて迎え入れよ う。遥ちゃん。いよいよ君の出番が来たよ」
 IPCC、AR5、この人達は何を言っているのだろうか。遥に分かったのは唯一粛清 という言葉。遥は粛清という言葉の名のもとに、悪徳企業に対して復讐の肩代わりをして きた。ニュースになっているものも少なくなく、突如現れた落下物に世間はざわついてい た。宇宙人からのコンタクトだの審判の日が近いだの、各々が各々の主張を展開している。 しかし、その実態を知っているのはここにいる四人だけである。
「オイラから説明するよ」
 てんが切り出した。 」
「まず気候変動と地球温暖化の違いは分かるかな。地球温暖化は地球の気温が上がること だね。もちろん、上がり方は場所によって異なる。極地、緯度が高いところの方が大きな 上昇をすると言われている。気候変動は、地球温暖化のことももちろん指すけれど、もっ と広い意味を持つんだ。たとえば、局所的な集中豪雨の増加、規模の大きい台風の増加海洋酸性化なんかも指摘されているね。これらが温室効果ガスつまりCO2の影響、しかも それが人為的であるということを科学的に説明しているのがIPCCなんだ。これは国際 機関でね、世界中の科学者から査読付き論文を集めて客観的に気候変動についての原理、 影響、対策について考察しているんだ」
 地球温暖化。ニュースでは聞いたことがある。学校の授業でも習ったかもしれない。し かし、問題になるのはまだ先の話ではなかったか。
「人為的な活動による世界全体の平均気温の上昇は産業革命以前と比べて二〇一七年時点 で約一. 〇度となっており、現在の度合いで温暖化が進行すれば、二〇三〇~五二年の間に 一. 五度に達する可能性が高いとされている。これが二〇一八年一〇月に発表された一. 五 度特別報告書の内容なんだ。一. 五度の気温上昇が起きると、脆弱な国、つまり島国や発展 途上国に影響が出始める。これは不公平な問題だということは分かるかな?」
 一. 五度の気温上昇。それがどの程度のものかは分からない。遥は暖房の設定温度も寒い ときは平気で二、三度上げる。これはやはり環境に悪いことなのだろうか。公平、不公平。 遥はケンカ別れした友人、姉の光を思い出す。遥は公平に扱われていただろうか。遥のク ラスメイトはみんな口が達者で明るく可愛い友人の味方をした。両親は光と遥を分け隔て なく育ててくれたように見えたが、離婚時の親権の争いではどちらが光を引き取るかで揉 めた。しかしながら、遥の時はそうでなかったことを遥は知ってしまった。友情も愛情も 誰しにも得難いものであることを遥は自分事として体験した。他人の不公平などにどうし て興味を見出せようか。
「世の中に不公平でないことなんてないわ」
 遥は悪態をついた。
「そうだね。この気候変動もまた衡平性の問題なんだ。『こう』はぎょうにんべんの漢字ね」
「衡平?公平じゃなくて?」
「リンゴジャムを作るためにリンゴが十個必要だとする。オイラが五個、遥ちゃんが五個 用意するのが公平。でも、オイラは一二五円でリンゴが買えるのに遥ちゃんは八三円で買 えたとする。その場合、オイラは四個、遥ちゃんは六個買うとコストが等分になる。これ が衡平。つまりステークホルダー、利害関係者の事情を考慮した上でバランスを取るとい う意味だね」
 算数の問題のようだ。遥は算数も数学も得意ではない。だが、安く買える人間が多く買 うべきだということは分かった。
「この衡平性には大きく二つあるよ。各国間の衡平性と世代間の衡平性があるんだ。先進 国は産業発展してきたので、温室効果ガスを歴史的に排出してきた背景があるね。だけど、 気候変動の影響は発展途上国がより受けるんだ。つまり、全員が加害者であり、被害者で あるという前提はあるものの、先進国がもたらした状況で発展途上国が被害を受けている 現状なんだ。また、気候変動の影響は時間が経過すると共に深刻化する。つまり、親の世代がもたらした状況で子の世代が被害を受ける。これらを『共通だが差異ある責任』があ るというんだ」
共通だが差異ある責任。みんながCO2を出し、みんながその影響を受ける。そして責任 はステークホルダーによって違う。遥はてんの授業を追いかける。
「どの国が温室効果ガス、CO2を一番排出していると思う?」
「経済が発展している国だと思うので、アメリカと中国ですか、日本も?」 「そうだね、アメリカと中国で世界の温室効果ガスの約四割を排出している。日本は二〇 一六年のデータだと三. 五%しか出していない」
「日本はあまり出してないんですね」
「それでも二〇一六年のデータによると、日本は五番目に多くの温室効果ガスを排出して いる。約二〇〇弱の国々の中でだ」
「そんなに違うならアメリカと中国だけで対策を取ればいいんじゃないですか?」
「しかし、アメリカは二○三○年の目標を含む国際枠組みであるパリ協定から離脱した。 中国はCO2を大量に排出する石炭を世界の半分も使っている。もちろん双方とも一枚岩で はない。カリフォルニア州などは気候変動対策に積極的だし、中国でも経済を回す観点で 環境対策する企業に投資が行われている」
「それでも足りないんですか?」
「パリ協定が目標とする二〇三〇年の世界全体の温室効果ガス排出量は、協定で約束した 各国の排出削減目標の合計を考慮しても、二一〇〇年の世界平均気温温度を二度に抑制す るために必要な排出量を一二〇~一四〇トン上回ると予想されている」
「ちなみに二〇一七年度の日本の温室効果ガス排出量は年間約一三億トン。つまりアメリ カと中国がこの世からなくなれば二度目標は達成できる」
 戦争がなければこの世界は平和になる。そう聞こえた。
「そんなもしもボックスみたいなことできるわけが」
 遥は現実感を伴わずにそうつぶやく。
「できるのだよ、遥ちゃんの力があれば」
 Kが会話に入ってくる。
「温室効果ガスで最も削減が難しいものがCO2、二酸化炭素だ。なぜなら二酸化炭素は産 業活動の副産物であり、それを抑制することは経済の圧迫につながるからだ。それを遥ち ゃんは固体化することができる。遥ちゃんの創りあげた固体は、ダイヤモンドに匹敵する 固さを持っている。ここでダイヤモンドの価値について少し説明しよう。ダイヤモンドの 色や輝きは主に『光の分散』、つまりダイヤの中で太陽光が屈折して様々な色に分離される ことで生まれる。今では人工石の中にも、天然ダイヤよりも高い分散率を誇るものが存在 する。最も有名なものはキュービックジルコニアだ。本来の定義では天然のものより『美 しい』ことになるはずだが、こうした宝石は『色が多すぎる』としてあまり評判が良くない。なぜダイヤモンドよりも美しい宝石に需要がないのだろうか?最も一般的な理由は、 キュービックジルコニアが安価なことだ。キュービックジルコニアの婚約指輪では、愛の ために大枚をはたく意欲を示せない。ダイヤモンドの価値は、その価格にある。つまり遥 ちゃんの作った固体は資源価値のない廃棄物になるはずだ。そして、これが国中に現れた らどうなると思う?各国政府はこの廃棄物を処理するコストと二酸化炭素を削減するコス トを天秤にかけるはずだ。そうすると、二酸化炭素を削減するインセンティブが生まれる。 加えて二酸化炭素を固体化することで温室効果も抑制できる。一石二鳥なのだ」
 これまで個人、法人規模で遥は二酸化炭素を固定化してきた。国規模で行うことなど想 像がつかない。
「もちろん、現在の遥ちゃんの代償では足りない。見直す必要がある」
 遥の代償は長期記憶の喪失であった。短期記憶に含まれる情報の多くは忘却され、その 一部が長期記憶として保持される。この保持情報が長期記憶として安定化する過程は記憶 の固定化と呼ばれる。長期記憶は保持時間が長く、数分から一生にわたって保持される記 憶である。短期記憶とは異なり、容量の大きさに制限はないことが特徴とされる。総理大 臣の名前、自転車の乗り方、大好きだったお菓子の名前、そしてこれまでの十件の仕事に 相当する記憶を遥は失っていた。もちろん、情報は再認識することができる。技術は再習 得することができる。しかし、そのエピソードに伴う感情は戻らない。もし、智也のこと を忘れてしまえば、智也に対する恋心はもう永遠に失われてしまう。惚れ直さない限り。
「遥ちゃんは代償を設定するにあたり、無意識にスクリーニングしていたはずだ。忘れて も良い記憶を取捨選択していた。その壁を取り払う必要がある。君にとって大事な記憶が 失われる。その代わり君は世界の救世主となる。誰も知ることはないが、名もなき英雄と して歴史に刻まれるのだ」
 遥は思う、重要な記憶などあるのだろうか、むしろ消したいトラウマさえある。これま での十件の仕事は遥の自尊心、それには今まで気づくことはなかったものだが、それをく すぐるものであった。ここにいていいんだ。自分の存在を肯定してくれる初めての経験だ った。
「救世主とか英雄とかそんなのは分からない。でも、私は何をすればいいの?」

 東京大学助教授の松井から分析結果の報告が届いた。物質はカーボンナイドライドと呼 ばれるものだった。つまり、炭素と窒素の合成化合物だ。既にいくつかの構造が発見され ちいるが、今回の構造は新発見の可能性があるという。実験のためにもっと材料が欲しい と言われたので、鹿島金属の連絡先を教えておいた。
 一方で、ここ最近企業が巨大固形物により破壊される事件が相次いでいた。どれも都内 で起きており、人為的なものであれば都内在住であることが分かる。この固形物の正体に ついては、警視庁は調査中であるという回答を出している。この一連の事件の被害者は知名度は決して高くない。しかし、悪い噂というのはぽつりぽつりと見つかっている。騒 音・振動・悪臭など地域への悪影響をもたらす工場は、法律や条例で規制値が決まってい る。しかし、 24時間記録しているわけではない。検査や監査の際に稼働率を調整すること もできるかもしれない。いずれにしても人は法律では納得できない。地域に嫌われる会社 というのはどこの地域にもいるのだろう。
 今回の事件は、零和のネズミ小僧と言わんばかりのものだ。実際、ダークウェブどころ か匿名掲示板で事件の依頼の投稿が見つかっている。器物損壊罪または傷害罪の教唆か。 こんなものIPアドレスからすぐ特定できるはずだ。もちろん、秋葉原などで外国人が販 売しているスマホを契約せずに使い捨てたり、スターバックスなどの登録不要のフリーW ifiなどで作業を行えば特定されないかもしれない。それでも既に容疑者として捕まっ ている者もいた。
 問題は実行犯である。こんなリスクを背負いながら一連の犯行を成し遂げてみせた。ど れもIPアドレスは違うようだが、肝心の金銭の授受の形跡が見当たらない。これがあれ ば有力な手掛かりにもなるし、動機もはっきりする。快楽犯なのかサイコパスなのかそれ とも自分自身を正義と盲信しているのであろうか。
 理由も分からず、謎の巨大物質を落とし続ける謎の人物あるいは団体X。そして、未発 見物質を撒き散らした女子高生Y。さて、何か関係があるのか。簡単のため、YがXに加 入したとしよう。謎の物質はカーボンナイトライドの亜種だ。それが大きな質量で何度も 生成されているということは、再現可能な生成システムがあるということになる。そうな ると、論文や特許の問題が出てくる。カーボンナイトライドの保管場所が襲撃される恐れ もある。そうなると、都の方針としては沈黙にならざるを得ない。ここまでは、仮設に穴 はない。だが、ピースが足りない。そのテクノロジーをどうやって手に入れたのか、運用 しているのか?
 霊司は巨大な闇に片足を突っ込んでいるような気がした。しかし、深淵を覗く者はまた 深淵に覗かれているのだということには気づいてはいなかった。


まだま若輩者ではございますが。皆さんの期待に応えられるように頑張ります(*'ω'*)