初めてのフィールドワーク/初めての人類学の世界

本イベントに参加した背景


組織・人事領域のコンサルティングを行う中で、現場に入り込み課題を見つけ出す人類学の手法には興味を持っていた。また、データドリブンで何事も解決するという風潮になんというか苦手意識があり、個人的に質的研究というものに可能性を感じていた。

人類学に代表される手法であるフィールドワークは、どんなに本を読んで理論を知ったとしても学んだことにならない領域だ。どちらかというと身体で覚える技能という意味では職人の世界に近いのではないだろうか。

ただ、このフィールドワークを上手くなりたいと思っても、大学以外で学ぶ機会はほぼない。私はフィールドワークに興味を持ってから、毎日のようにGoogleで「フィールドワーク ワークショップ」とか「エスノグラフィー セミナー」みたいなキーワードを検索していた。でも全然見つけられないのが現実だ。
そんな状況で今回の機会を見つけ出し、すぐさま応募した。知らない人と泊まりがけで過ごすという、結構神経質な自分としてはハードルの高い選択だったが、勢いでの応募であった。

<イベントの詳細>

事前準備段階

すごい人と出会うと自分がちっぽけに感じる

今回のフィールドは、福岡県の自然あふれる街、糸島だった。ただ、いきなり糸島に集合してスタートというわけではなく、1ヶ月前くらいに事前でオンラインの集まりがあった。そこで、イベントの流れや糸島の事前知識の共有があった。

ここで意外だったのは、主催者サイドの方々が非常に多いことだった。
主催者の皆さんの自己紹介を聞いて、なんというかすごい焦ってしまった。人類学をアカデミックで学んだ上に、ビジネスで生かしている人がいる。こんなに自由に仕事を創り出している人がいるのか、という衝撃があった。ちょっと前の自分は、コンサルティングというビジネスど真ん中を行いながら、人類学に興味を持っている時点で、自分を「目の付け所が特別で面白い考えを持ってるんじゃないか」くらいに思っていた。その証拠に、会社の人に人類学に興味を持っていると話すと驚かれていた。

そんな自分も人類学の専門家として世間から認知され、さまざまな活動をしている人を前にすると、とんでもない素人だし、なんだかアウトサイダーな感じがした。(学び始めなんだから当たり前なのだが)「彼らは自分の100周先を走っている」くらいに思った。

また、フィールドワークはペアで回るので、ペアの方と初めてお話した。その方も大学院の研究生としてこの4月から人類学を勉強するという話だった。
みんなすごい旺盛に勉強している・・・やばい。

このアウトサイダー感と焦りみたいのがずっと続いてた。

人類学を学ぶ正当な理由があるべきだ(という勝手な縛り)

学びたいと思う人とたくさん出会えたことは今回の大きな収穫の一つだった。

みんな人類学を学びに来ているので、初対面での会話は「なぜ人類学に興味を持ったんですか?」「普段何してるんですか」という2つの会話が多かった。
話す人がみんな、仕事や生活の中で問題意識を持ち、人類学と結びつけて考えているのを聞いたのは大変興味深かった。デザインに関わる領域で仕事をする人がいたり、面白い取り組みをしている人がたくさんいた。

皆さんがとっても立派なもので、私も自分が「人類学を学ぶ権利を持った人」であることをアピールするのに精一杯になった。自分が仕事上に置いて明確な問題意識があり、それを人類学で解決するという明確なビジョンがなければ、ここには参加してはいけないような勝手な思い込みがあった。もちろん、そんなことは誰も気にしないのだけど。

やっぱり、アカデミックに研究している人やデザイン関係の仕事に活かす人、組織開発に活かす人などのお話を聞くと「面白いことやってて羨ましいー!」と思うので、自分もそう思われてみたいのであった。

そういう意味では、主催者の方々は人類学を修めており、本当の意味で実践している人という点から、「グル」みたいな存在だった。「グル」に近づきたいけど、ビビりすぎて、フラットに話ができないというのが正直な感想であり、アウトサイダーな自分が人類学界隈のインサイダーになって認められたいという憧れを抱いた。

これはもちろん馬鹿げたことで、何かを学びたいという時に、アウトサイダーも何もないし、学ぶための正当性など必要ない。それでも、「目標達成への最適な道を辿れ!」という合理的な世間の風潮の中では、自分に正当性がないといけないような気がして、焦りを感じたのだと思う。我ながら生きづらい考えだ・・・

フィールドワークの振り返り

事前の目論見 ディープな糸島を見つけてやる

焦りを感じると言いながら、糸島の下準備はあまりしていなかった。
フィールドワークの入門書を数冊読みつつ、糸島についてネットサーフィンをしたくらい。
1冊、糸島の地域創生についてお役所の人が書いた本を読んだ。これは糸島のことを概観するのに役立った。


とにかく、食の魅力がすごいということはわかった。あとは、邪馬台国時代などの古くから人が住んでいた土地、という印象だった。
また、いわゆる、映えスポットのような場所がいくつかあり、人気の観光地らしい。今回のテーマが「裏糸島」ということもあって、そういうキラキラした糸島ではなく、もっとディープな面を知ってやるという思いがなんとくなあった。

現地到着・フィールワーク実践 「今めっちゃフィールドワークっぽい!」

博多から1時間程度、拠点となる本屋アルゼンチさんのある大入(ダイニュウと読む)駅に着いて、ハッとした。こんな美しい場所だとは想像していなかった。山がすぐ近くにあり、海も徒歩3分、その海も透き通っており、穏やか。お日柄も大変良く、爽やかな風が吹いた後に葉っぱがサラサラいう音がとても気持ちよかった。

ペアの方は精力的にいろんな人に話しかけてくれた。普段、お店の人にスミマセンと声をかけることも苦手な自分でも、一度会話が始まってしまえば、なんとか会話をしていくことができた。さらに、現地の方々は、全く拒むこともなく、怪しんだりすることはなかったので、すごくフラットに会話ができた。

話せば話すほど自信がつくし、おもしろい話が聞けるので、結果10人超の方とお話できた気がする。昔からこの地域に住む人、3駅隣の町から遊びに来た高校生、イカ釣りしに来た人・・・本当に皆さんいい人で感謝。

ピアスをしたヤンチャそうな高校生に話した時、(自分は割と根暗な高校生だったのでそういう人と交わることが少なく)内心ヒヤヒヤしたが、大変素直で親身に色々教えてくれて、自分がいかに勝手に人を判断しているか思い知った。

神社にいた女性に話しかけたとき、「ここに昔から住んでいる人に話を聞いた方がいい」ということで、立派な邸宅まで連れて行かれ、子供の頃から大入に住んでいる方を紹介してくれた、お話を伺えたというのは面白かった。「これってすごい人類学者っぽい。なんなら旅番組のディレクターっぽくもある」と胸が躍った。

また、公民館をうろうろしていたら、そこを管理する方が親切に、そこで祀られる仏像を見せてくれたりもした。そこで、その知識の人柱伝説などの言い伝えなども聞けた。これもすごくフィールドワークっぽい経験だ。

意外とその場に身を任せれば出会いがあり、色々面白いことが知れるのだ、という実感を得ることができた。他の参加者の方とも、「これを東京などの都市で行ったら、こんなにうまく行かない」と話した。この土地の方々の人柄もあり、こんな素人でもそれっぽい経験ができたのはよかった。

例えば、この黒いシミが、釣られたイカが吐いた墨だということは、そこにいる人に聞かないと多分一生わからないことだ

フィールドワークの振り返り

自分のバイアスに気付き続けなくてはいけない

その日の夜にフィールドワークのレポート(という名の殴り書き文)を書き、次の日は発表とフィードバックといった流れだった。

振り返りのディスカッションの中で印象に残ったのは、糸島市内の各地にいる人は自分たちを「糸島の人」と認識していないということだ。
糸島は1市2町が合併してできた市であるという背景もあり、「糸島」という大きなくくり方は、行政の地方創生戦略の中や、観光者のイメージの中に存在するのではないか。
住む人はもっと細かい分類で考えている。

そんな中現地の人に「糸島ってどんなところですか」と聞くのは、少し乱暴だったと反省した。

E・サイードが「オリエンタリズムは西洋が考えた幻想だ」的なことを言っていたらしいが、それとすごい似ている構造だと思った。私たちは、糸島というかたまりで一つの地方のアイデンティティがあると勝手なイメージを持ち、そのイメージを元にフィールドワークをしていたわけで、その裏には、「糸島っぽい」何かを見つけたいという願いがあり、それ自体がバイアスや話を聞く相手へのプレッシャーになっている可能性がある。もっというと、「地方の自然あふれる町はこうあるべきだろう」とか「最近観光地化しているから、地元民は迷惑しているんだろうな」とか勝手な妄想があったことは間違いない。

そもそも「裏糸島というものを見つけよう」という目論見があったが、表があって裏があってという単純な話ではなく、現実はもっと複雑なんだと思った。各地域に独特なアイデンティティがあるし、その中の一人一人もいろんな考えや物の見方がある。

そうすると結局、糸島の何を掴んだ?という話になってしまう。「みんな違って、みんないい」みたいな結論だったら、結局何もわかっていないようだし、調査する意味もないじゃないかとなる。ただ、糸島に住む人の外部者に対する懐の広さや、美しい自然の中で暮らすことへの誇り、神社というか神道っぽいものが生活に溶け込んでいるということは、共通的に見られることであるようにも思えた。多分こういう共通して見られることからより明確なテーマを設定し、さらに深く調査していくのが、フィールドワークという営みなんだろうと理解した。

そういう拙速に回答を求めない感じが人類学なのかなという感覚が今回得たものだった。

まとめ

エスノグラフィー入門の本を読んでいて、現代のエスノグラフィーは「自己再帰性」がキーワードになっている、と知った。「客観的な真実などという理想を追い求めるのではなく、主観が混じることを前提に、ちゃんと自分がどういう立場でどういうバイアスがありうるのかについてもしっかり記述して伝えましょう」ということだと理解している。

そのため、自分が感じたことを中心に振り返ってみた。
新しいことを学びに、どこかの輪に入る時の自信のなさみたいなものを書いておきたかった。人類学の輪に入りたいけどもどかしい「アウトサイダー感」と「フィールワークは案外やれそうだという小さな自信」が今回の経験に通底する感情のように思う。

もっとインサイダーになれるように周辺的正当参加をしていき、芽生えた自信を育てていくことでいつかは「人類学の人」と呼ばれたらいいな、などと考えた。

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