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エバンゲリオン考察 ーLCL ATフィールド 二元論ー

エバンゲリオンを考察するにあたって、まずその世界を構成する特殊な物質であるLCLやATフィールドについて分析する。その上で、キーとなるテーマである人類補完計画がどのようなもので何を意図していたのかについて考え、アニメ版、映画版の各結論がどのような意味合いであったのかについて述べた。この考察ではほかの多くの考察のように映画やアニメに出てきていないものを用いて考察することなく、映画やアニメ内の情報だけで考察(妄想)してみた。

1,万物の根源 LCL
万物の根源はなんであろうか?この問いは古代ギリシャから存在する問いだ。ソクラテス以前のギリシャ哲学では、万物の根源は空気であるとか水であるとか数であるとかいろいろ言われていた。当時科学が発達していない状況においてそれらの答えは至極合理的で、単一の物質の濃度や様々な変化により液体または気体が様々な材質に変わるという風に考えた。現代の物理において、物質は原子によって構成されていると考えるが、その原子も何種類かのクオークによって構成されるが究極のところは十何次元世界のひもであるというような考え方もある。つまり、いわゆる我々のいるこの世界の原子論のようなものは極めて非自明なもので、エバンゲリオンの世界においては万物の根源を別のものであるという世界で考えられている。その、世界の構成するものである万物の根源の物質的なもののひとつがLCLである。ただし、人がLCLと化したとき服や周りの物体はそのままであったことからLCL以外にもいわゆる無機物的なものもあるのだろうと考えられる。しかし、エバンゲリオンの世界において万物の構成要素はこれだけではない。ATフィールドである。そのことについて、つづいて話していく。

2,心身二元論
エバンゲリオンの世界において物体は、無機的な物質と人体を構成するLCLからなることを述べた。しかし、それだけがすべてではなく精神的なものとしてATフィールドが存在している。以下ではそのように考えられる理由とATフィールドと自由意志というものが等価であることについて説明していく。まず、基本的な考え方として唯物論と心身二元論というものがある。唯物論はこの世は物質のみで構成されていると考え魂、心は存在しないとする考えである。心身二元論では物質的な存在と精神的な存在があると考える。エバンゲリオンの世界で明らかに心身二元論の立場をとるべきである。なぜなら、唯物論において物事の推移は因果的な物理法則によって決定してしまうため人に自由意志が存在しえないからである。もちろん、我々の世界に関しては唯物論的な見方は否定できない。では、我々の世界とエバンゲリオンの世界は何が違うのかというと、エバンゲリオンの世界は旧約聖書の世界であり失楽園から始まる物語である点だ。失楽園とはアダムとイブが神様のいるエデンの園において蛇にそそのかされ知恵の実をたべ追放される話である。そこから始まる原罪を背負って生きていく物語が旧約聖書であり、それをモチーフとしたエバンゲリオンなのである。つまり、人間の原罪を認めるためには自由意志が必要でそれゆえにエバンゲリノンの世界は唯物論的ではなく二元論的なのである。

3,ATフィールドとは自由意志の外化である
自由意志とはなんだろうか。先ほどの話のとおり、自由意志は物事の因果的な遷移(物理法則)にしたがわない存在である。別の言い方をすると、自由意志は物理法則に支配された物質世界に対して、一方的に影響を与えることができるものである。極端な言い方をすれば念力である。我々は自由意志があるが念力がないと思うかもしれないが、物理法則に従わず自分の意志で腕を動かせることがここでいう念力なのである。なんてちっぽけな念力なのだろうかと思うかもしれないが、それには(エバンゲリオン的には)理由がある。以下でエバンゲリオン世界において使徒よりも人間が非力である理由を述べる。その結論は端的に言うと、人間(リリン)は使徒の一種でありながら知恵の実を食べたことにより群体となったため、そのほかの使徒のような単体の生物以上に自由意志(念力)の分散が行われてしまったためであると考えられる。加えて、ATフィールドはLCLを人型に保つための力としても働いているようである。つまり、各個体が意思決定のために自由意志(念力、ATフィールド)を内在化させることと、LCLを人型に保つことに多くの自由意志(ATフィールド)を注ぎ込んでいるのに対して、使徒は単体であるため意思決定のために自由意志(念力)を少ししか内在化させず残りを念力(ATフィールド)として外化していると考えられる。言い方を変えると、リリン(人)は群体であるために各個体同士がATフィールド(自由意志)をぶつけ合い相殺し合うこと(人と人との対立)により他の使徒より弱くなっているのだともいえる。それであるのに使徒と対等に戦うことができるのはひとえに知恵のみによる科学技術の発展(エバンゲリオン)によるものである。ここまでを踏まえて人類補完計画がなんであったのかを次から説明していく。

4,人類補完計画
人類補完計画がいったい何であったかを話す前に、エバンゲリオンのストーリーの元となった旧約聖書の話の流れを確認しておこう。エデンの園で禁じられていた知恵の実を食べたアダムとイブは、エデンの園から追放され原罪を背負うことになる。この点がエバンゲリオンを考えるにあたって重要な点であるのだが、ここに対していくつか理解しておくべきことがある。それは、なぜ知恵の実を食べてはならなかったのか、知恵の実を食べることによって何が変わるのかと言う点である。聖書に即して考えると知恵の実を食べたことにより恥じらいを感じるようになったと言う。これは他と隔絶した自我の目覚めであり、神に逆らうことができるようになったということである。また、エデンの園にはもう一本木があり、そこには生命の木の実がある。それを食べると神と等しい永遠の命が得られると言う。つまり、神は知恵の実を食べた人類が生命の木の実をも食べることによって、神に類する存在になることを恐れたのである。これをもとにエバンゲリオンに話を戻す。このような経緯で追放された人類は神から使わされた生命の実を食べた使徒からの攻撃を受けることになる。これに対して、人類(リリン)はとある対処方法を考える。それが人類補完計画である。人類補完計画とは知恵の実を手に入れた人類がさらに生命の実をも手に入れて神に準ずる力を獲得し使徒は愚か神にも対抗しようと言う考えである。これがゼーレの目指していた人類の生きる道であった。具体的にはairまごころを君に行われたように、ATフィールドを各個体から集めて一つに統合することで、その際人の体はLCLに還元されリリン(人)は単体の使徒となることである。

5,結局結末はなんであったのか?
では、結局結末はどう言う話だったのかと言うことにうつる。エバンゲリオンの結末はテレビアニメシリーズ、まごころを君に、映画版 の3パターンある。まず、テレビアニメシリーズの結末は結局よくわからない。碇シンジの内面で何かしらよくわからないが解決したみたいだ。なぜ、あれほどよくわからない結末になったかと言うと残酷描写などの問題でテレビで放映できなくなり無理やり終了させたためだ。それゆえにテレビアニメシリーズの結末は不明ということで次に進もう。テレビアニメシリーズの結末が意味不明すぎたために結末部分だけ作り直したものが air まごころを君に である。この結末は人類補完計画が一時成功したものの、その中核であった碇シンジが群体としての存在を望んだため中止されたと言う話である。では、1番新しい劇場版のエンディングはどのような意味であったのだろうか。それはニーチェ哲学に基づく脱キリスト教的世界観である。まず、ニーチェ哲学について簡単に説明しておこう。ニーチェは当時支配的であったキリスト教的な世界観を否定し、神の存在を認めず、人間は神の意思に従うことによってではなく内発的に良きことをするものだと考えた。また、永劫回帰という考えがあり、世界は同じことの繰り返しであり個人の人生すら何度も繰り返すものだという。喜びも苦しみも繰り返すけれども、人生の中で一瞬でも素敵な瞬間があればその人生を喜んで繰り返そうという。このような脱キリスト教的世界観が新劇場版の結末であると考えられるのはごちゃごちゃとしたエバンゲリオンの世界から離れいま、目の前の人生を生きる主人公たちの姿で終わっていることからもわかる。また、エバQにおいて甲板でミサトさんとゲンドウとの対話シーンでもわかるようにNERVはキリスト教的世界観の枠組みで原罪から逃れようとしているのに対しWILLEは脱キリスト教的に人間の可能性を信じるという立場をとっている。(WILLEはもともと加持のノアの箱舟作戦のために設立されたが、ミサトのニーチェ作戦に用いられる形となった。)このことから原罪から逃れる二つの方法論が対立していることが読み取れる。また、劇場版序、破においてアニメ版と非常に類似したストーリーになっている、このことが永劫回帰を暗示させ過去のアニメ版を含めての、さようなら全てのエバンゲリオンであったのではないだろうか。つまり、劇場版の結末はアニメ版を含めたキリスト教的世界観もニーチェ哲学からすれば永劫回帰のなかに含まれており、そのようなキリスト教という奴隷哲学から離れ人間の内発的な善に従って生きていくことこそが大切であるということだろう。

6,最後に
これらのことを念頭に置いて見直してみると多くの新しい発見が得られるだろう。エバンゲリオン初号機にゲンドウの妻ユイが取り込まれてしまって体すら見当たらなかったという事故の持つ意味、人類補完計画の描写の意味、これらのことももう説明できるようになったのではないだろうか。ただし、ここまでの考察はあくまで一個人の妄想に過ぎず、考察が作品の意味を規定してしまうということもある。あくまで考察というのは二次創作であるということも忘れずに楽しんでいただけたのなら幸いだ。

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