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『AI時代の「超」発想法』 第8章「超」発想法の基本5原則(その2)

『AI時代の「超」発想法』が2019年9月19日にPHP出版社から刊行されます。これは、第8章「超」発想法の基本5原則(その2)です。

◇ 発想の5法則はつねに正しいか? 
「全く独創的なアイディア」はありうるか?
第1法則で、「新しいアイディアは従来のアイディアの改良だ」と述べました。この法則に例外はありうるでしょうか?
もちろん、「絶対にありえない」とは断言できません。
レオナルド・ダ・ビンチの発明を見ると、とくにそう感じます。15世紀のルネッサンス期に、機関銃、自転車、軸受け、ボール・ベアリング、さらには、飛行機、潜水艇など、400年以上たってから実用化された機械の設計図を描いているからです。その当時の知識や技術のレベルとは、全くかけ離れています。宇宙から来訪したのか、さもなければタイムマシンで400年遡ったとしか考えられません。これらは、「全く独創的なアイディア」といってよいでしょう。しかし、こうしたものは、常人とは別のカテゴリーの天才の発想と考えるべきでしょう。
しかし、全く新しくはない改良でも、十分に新しいといえます。現実面では、このような意味での新しさで十分なのです。
何らかの意味で「改良」といえる発想の中にも、さまざまなグレードのものがあります。ノーベル賞級の大発見もあるし、社会を一変させるような発想もあります。ここで重要なのは、必ずしも最高レベルのものを目指さなくともよいということです。僅かの変化であっても重要なのです。実用のために重要なのは、しばしば、「最後の一歩」です。
重要なことは、発想のメカニズムやそれをもたらす条件は、そのグレードのいかんによらず同一だという点です。どの程度の結果が得られるかは、事前には分かりません。しかし、とにかくアイディアが必要であれば、ここで述べた5法則を尊重することが必要なのです。
ポイント 全く独創的なアイディアもあるかもしれない。しかし、現実には、小さな改良であっても重要。

* 高津道昭『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』新潮選書、1990年。

◇ 機械的方法が役立つ場合
第2法則で「マニュアル的な方法論は役に立たない」と述べました。この法則に対する例外はありうるでしょうか?
ここでも、例外はありうるでしょう。第2法則が指摘しているのは、「機械的な方法が一見するよりは非効率なものだ」ということであり、それが全然役に立たないことを主張しているのではありません。
実際、商品のネーミングなどの単純なアイディアについては、マトリックスを作ったり、カードを並べたりするような機械的な方法によって、それまで見逃していた組み合わせを見出せる場合もあるでしょう。こうした対象ならば、工業生産のような手法で、ある程度は扱えるのです。世に溢れている「発想法」の本は、こうした用途を想定しているのかもしれません。
ただし、新しいビジネスモデルの開発、新規事業の企画、新商品の開発など、もう少し複雑なものになると、機械的方法の有用性は疑問です。ましてや、学問上のアイディアなどについては、こうした手法の有効性はきわめて疑わしいといえます。もし使えるとしたら、その分野は、「モデル」という概念が欠如している分野だと考えざるをえないのです。

ポイント 単純なアイディアや「モデル」が必要とされない分野では、マニュアル的な発想法の利用余地があるかもしれない。

◇科学的発見とビジネスの発想は同じか?
ビジネスでも新しいアイディアが必要な時代になりました。では、科学的発見とビジネスの発想は、同じものでしょうか? それとも全く異質なものでしょうか?
もちろん、内容は随分違います。それが生み出される環境や、用いられる目的や分野も違います。科学上の発見は、世界の理解を深めることが目的です。それに対して、新しいビジネスは、多数の人々に受け入れられなければ意味がありません。
科学者の発想が通常は個人的作業であるのに対して、ビジネスの発想は集団的になされることもあります。また、第3法則で述べた「勉強の必要性」は、科学の場合により強くいえることです。とくに最先端の自然科学では、それまでの業績を熟知していないと、全く前に進めません。これに対して、ビジネスの発想は、実務的な経験から生まれる場合が多くあります。
しかし、新しいアイディアが生み出されるメカニズムは、基本的には同じものだと考えられます。少なくとも、これまで述べた5法則が等しく適用できるという意味において、同じものです。
とくに、「模倣なくして創造なし」という側面は、ビジネスではきわめて明確です。
自動車を「金持ちの玩具」から「大衆の足」とする画期的なT型モデルを開発したヘンリー・フォードは、つぎのように語りました。「私は何も新しいものを発明しなかった。他の人の発明を結びつけて、車を作っただけである。五十年か十年、いや五年前に仕事を始めていたら、失敗していたかもしれない」。
また、「組み合わせが頭の中で行なわれること」「意欲が重要であること」などは、ビジネスでも科学でも、全く同じです。ですから、科学上の発見プロセスを分析することは、ビジネスでの創造過程に対しても、大いに参考になるでしょう。

ポイント ビジネスでの発想も、基本的には科学研究での発想と同じもの。

* M・マハルコ(齊藤勇監訳)、『アイデアのおもちゃ箱』、ダイヤモンド社、1997年。

◇ 模倣の天才モーツァルト
では、音楽、絵画・彫刻、あるいは映画やミュージカルなど、芸術分野の発想は、どうでしょう?
これらに関して私は門外漢なので、自信を持って発言できません。ただ、こうした分野での創造活動は、科学上の発見やビジネスの新機軸開発に比べて、直観やひらめき、あるいは生まれつきの才能が決定的な役割を果たす点で、かなり異質なように見えます。実際、モーツァルトの創作過程を伝えるアンリ・ゲオンのつぎの文章を読むと、「想像を絶する」という感想しか出てきません。

天才ベートーヴェンが苦労したあの下書き帳の類を、彼(モーツァルト)はほとんど用いなかった。最初の構想も、直しも、仕上げも、すべてが頭の中にあった。それもたいていは各声部や、小節数や、相関関係を、同時に見すえたと言われている。あとは写譜するだけである。普通は猛烈な速さで、指が痛くなるほど、と手紙の中で彼は訴えている。ときには、頭に浮かんだ作品を写し直しながら、別の作品を考え、アンダンテを考えながらロンドを考えることさえあった。

しかし、真に驚くべきは、この後です。モーツァルトの創作の出発点は完全な模倣だったと、ゲオンは解説するのです。

彼(モーツァルト)は、模倣に模倣を重ね、やがて完全に模倣できるようになった。(中略)こうしてモーツァルトは、ショーベルト風に、ヨハン・クリスティアン・バッハ風に、ミヒャエル・ハイドン風に、ヨーゼフ・ハイドン風に、ピッチーニ風に、サッキーニ風に、何々風に……というようにつぎつぎに作曲したが、あまりにもそっくりに模倣したため、彼の作品とお手本の見分けがつかなくなり、お手本のほうが逆に彼の作品を模倣しているかのようであった。

彼ら(ショーベルトとモーツァルト)がパリで出会ったとき、ヨハン・ショーベルトは二十年後のモーツァルトにすでに非常によく似ていたので、ヴォルフガンクによって模倣され協奏曲に作り変えられたソナタの一曲は、非常に長い間、幼い模倣者のものとされていたほどである。

モーツァルトの模倣は、少年期だけのことではありません。モーツァルトの研究家アルフレート・アインシュタインは、『ジュピター』交響曲の最終楽章が、ミヒャエル・ハイドンの交響曲の最終楽章に非常に似ていると指摘しています。モーツァルトの『レクイエム』が、ハイドンの『レクイエム』にそっくりであるとの指摘もあります。

ポイント 芸術での発想でも模倣が重要な役割を果たすことがある。モーツァルトは、その典型例。

* アンリ・ゲオン(高橋英郎訳)『モーツァルトとの散歩』、白水社、1988年。括弧内は野口の注記。
*2 木原武一『天才の勉強術』、新潮選書、1994年。

◇ 5法則を遵守すれば必ず成果があがるか?
強いモチベーションを持ち、沢山のデータを頭につめ込み、そして適切な環境を用意すれば、必ず革新的なアイディアが生まれるでしょうか?
これは、難しい問題です。正直にいえば、「必ず生まれる」とは断言しがたいと思います。発想は能動的なプロセスだからです。少なくとも、ある一定期間のうちに必ず成果があがると保証するのは、難しいといわざるをえません。
しかし、「確率が高くなる」とはいえるでしょう。インプットされたデータが多いほうが、不適切な環境下よりは適切な環境下のほうが、そして、モチベーションが高いほうが、アイディアが生まれる可能性は高くなるはずです。

ポイント 発想は難しい課題だが、5法則にしたがえばアイディアが生まれる確率は高まる。

◇ IQは影響するか?
創造的活動を行なうのに、高い知的能力は必要でしょうか? これに関して、つぎのような話があります。
ある出版社の社長が、創造性がない社員が多いことを心配して、心理学者に調査を依頼しました。1年間社員を綿密に調査した結果、創造性のある人々とない人々との間には、たった1つの差異しかないことが発見されました。
それは、「創造的な人々は自分が創造的だと思っており、創造的でない人々は自分が創造的でないと思っている」ということでした。
このエピソードは、きわめて示唆的です。「創造性がない」とは、「自分は創造性がないと思っていること」なのです。あるいは、「自分は創造的だと思えば、創造的な活動ができるのだ」ともいえます。
これは、歴史上の大学者や文学者などを見ても裏付けられます。発想や創造に知能指数はあまり関係がないのです。
もちろん、非常に高い知能指数の人もいました。ゲーテの知能指数は、幼児期の語学能力から推測すると、185程度と考えられるそうです。ジョン・スチュワート・ミルやライプニッツも、これと同程度の知能指数だったそうです。
しかし、創造的な仕事をした人の誰もが知能指数が非常に高かったかといえば、そんなことはありません。ニュートンの知能指数は、125程度だったといわれます。10代のときには、母親の勧告で、学校を中退したことがあります。
トーマス・エジソンも、学校の成績が悪く、退学させられました。アインシュタインも、学校の成績が芳しくなく、スイス連邦工科大学(ETH)の入学試験に落ちました。予備校に通って翌年には合格しましたが、「できがよくない人間」との評判がついてまわり、特許局の職員として薄給に甘んじていました。
逆に、知能指数が高い子供が大人になって必ず成功するわけではないことは、よく知られています。こうしたことを見ると、創造力は、生まれつきの能力ではないといってよさそうです。

ポイント 創造力は、知能指数や学校での成績と関係がない場合もある。

* M・マハルコ(齊藤勇監訳)、『アイデアのおもちゃ箱』、ダイヤモンド社、1997年。
*2 福島章『天才』、講談社現代新書721、1984年。

第8章のまとめ
1.新しいアイディアが無から生まれることはない。どんな独創的なアイディアも、既存のアイディアの組み替えだ。模倣は創造の出発点。発想は、一部の人の独占物ではない。

2.発想のためには、必要な知識をまず頭に詰め込む必要がある。

3.既存のアイディアの組み替えは、頭の中で行なわれる。方法論にこだわるよりは、環境整備を心がけるべきだ。

4.科学上の発想、ビジネスでの発想、芸術上の発想は、外観上は異なるが、本質は同じもの。


発想力トレーニング(8) イタズラで磨く発想力(その2)
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