見出し画像

音楽が保存する過去の環境


 香りや気温は、自分でコントロールして特定の刺激を得ることは難しいものです。

 しかし、過去を呼びさます刺激のうち、コントロールできるものもあります。その代表選手は、音楽です。流行歌は、世代の否定しがたい共通記憶となります。
 ラジオやテレビ番組の主題歌についても、同じことが言えます。また、校歌、応援歌なども、学校生活の記憶を呼びさます強力な手がかりです。
 もちろん、もっと「高級な」音楽も、この機能を持っています。曲によっては、かなり繊細な感情を呼び起こします。もちろん、どの曲がどんな感情と結びついているかは、個人によって千差万別でしょう。

 私の場合の代表選手は、次の三つです。第一は、シューベルトの交響曲第9番。これを聞くと、高校時代の教室に戻ったような感覚に襲われて、胸苦しい気持ちになります(そのころは、「第7番」といっていました)。第二は、ベートーヴェンの「大公」トリオ。これで思い出すのは、望郷の思いに苦しめられていたカリフォルニアでの留学生生活です。第三は、ドボルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」。これはエール大学の思い出なのですが、不思議なことに、学期中ではなく、夏休みで学生がいなくなって寂しくなったニューヘブンの町です。夏の日の物憂い感情が、カプセルに詰まったようにそのまま保存されています。
 コントロールできるもう一つの刺激は、場所の記憶です。過去に住んでいた街並み、家の中の様子、学校の中の様子などを思い浮かべると、驚くほど鮮明にそのときの状況が再現されます。

 ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの名作『ソラリス』で描かれている惑星の海は、そこを探検にきた人間の記憶の襞に入り込み、その人が忘れていた過去の記憶を呼びさまして実体化させます。このため、主人公である科学者ケルビンは、この惑星の虜になってしまうのです。(注3)。
 ここで述べたような作業も、ソラリスの海と似たような能力をもっています。そのためケルビンと同じように虜になってしまう危険があります。週末の夜にタイムトリップするだけならよいですが、月曜になっても過去の世界からぬけだせなくなったりしないように、ご用心。

(注)『ソラリスの陽のもとに』(飯田規和訳、早川書房)。なおアンドレ・タルコフスキイは、この物語を映像化して、『惑星ソラリス』という、極めて魅力的な映画を作っています。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

『平成はなぜ失敗したのか』(サポートページへのナビゲーション

野口悠紀雄の本

メタ・ナビゲーション(総目次)

ホーム




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?