超整理日記

「超」整理日記:第967回

「超」整理日記を復刊しました。自由な内容を、「日記」という言葉の本来の意味に立ち戻って、書いていきます。

◇ これは「超」整理日記の第967回です
 最初から967回というのは、妙だと思われるかもしれません。
 2019年8月31日まで『週刊ダイヤモンド』に連載していたものを引き継いだため、回数も引き継ぐことにしたのです。

 『週刊ダイヤモンド』の「超」整理日記は、そこでモットーとして書いたとおり、その時々の考えを、情報やメディアといった観点から捉えようというのが最初の意図でした。
 最初はそのとおりの内容だったのですが、リーマンショック以降、カレントな経済問題に偏った内容になってしまいました。
 日本経済の厳しさが増してきたため、やむをえない方針転換だったのです。

 ここでは、初心に立ち戻り、経済問題に限らず、自由な内容を、「日記」という言葉の本来の意味に立ち戻って、書いていきたいと思います。
 兼好法師が『徒然草』の冒頭でいっているように、「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつく」ろうというわけです。

◇ 井の頭公園に桜が咲きました
 雑誌の「超」整理日記とは違って、ウエブの「超」整理日記では、写真を自由に使えます。この利点を存分に活用したいと思います。
 下の写真は、井の頭公園に数週間前から咲いている桜です。
 ここ以外にも寒桜がいくつかあり、これから花が咲いていきますので、「超」整理日記でレポートしていくつもりです。

さくら 2-10


◇インターネットの破壊力

 『週刊ダイヤモンド』での「超」整理日記の第1回は、1995年4月22日でした。
 この頃といまを比べて最も強く感じるのは、インターネットの普及がもたらした情報環境の変化です。
 当時はインターネットはまだ使われておらず、電子メールは「パソコン通信」と呼ばれる方式で行なっていました
 インターネットの普及に伴い、情報の量が爆発的に増えました。

 一方で、印刷物の衰退ぶりは、目をおおわんばかりです。
 書籍販売額は、1997年には1兆1000億円程度でしたが、2017年には7000億円近くに落ち込んでいます。雑誌販売額は半分以下に落ち込んでいます。
 全国の書店数は、1999年に2万2000を超えていたのが、2017年には1万2500程度にまで減っています。

 これがもたらした変化を一言で言えば、情報の量が増える一方で、質が低下したということです。

 オスカー・ワイルド(19世紀のアイルランドの作家、詩人)は、かつてつぎのように言ったことがあります。
 「昔は、文学者が本を書いて、大衆が読んだものだ。いま、大衆が書いて、誰も読まない」
 天才詩人は、100年以上前に、現在の状況を正確に見通していたのです。

 人々は古典を読まなくなりました。それどころか、そもそも書籍を読まなくなりました。物書きにとっては誠に厳しい時代になったと考えざるをえません。

 しかし、考えてみれば、これはおかしなことです。古典は長い年月の淘汰過程をくぐり抜けてきた訳ですから、これを読む方が、ネットに溢れている情報を読むよりはずっと効率的なはずです。
 これは、クラシックの押し売りに参上しました(その2):古典を読むほうが「効率がよい」に書いたことです

◇ ハイパーリンクの可能性
 ところで、インターネットは害悪だけをもたらしたわけではありません。
 言うまでもないことですが、様々な可能性を開いています。

 印刷物では出来なかったことの一つは、リンクが可能になったことです。
 これによって、様々な知識や情報が結びつき、新しいものを生み出していくことが可能になっています。
 自分が書いたものの中だけでも、リンクや関連付けをつけることによって新しいものが生み出されることがあります。
 ある種のアイディア製造工場的なことが可能になります
 最近では、コンピューターが画像認識能力によって印刷物の文字を読み取ってくれるようになりました。この機能を用いれば、印刷物でもハイパーリンクと同じことができるようになります。この1年間くらいに刊行した書籍で、私はその試みを始めています。
 この新しい超整理日記でも、そうした沢山の可能性を追求していきたいと考えています。

◇ 壁新聞と超整理日記の連携
 ところで復刊と言えば、小学校の時に作っていた壁新聞を、noteで復刊しました。野口悠紀雄の壁新

 小学生の頃、私は、クラスの仲間を毎週日曜日に、万世橋にあった交通博物館に引き連れて行ったのです。
 そして、見学したことをまとめて、壁新聞に貼り出していました。研究テーマは、地下鉄です(その当時、地下鉄は、銀座線しかありませんでした)。

 そのうち別のグループが、都電について同じことを始めたので、私も地下鉄についてもっと詳しく調べる必要が生じ、交通博物館だけではなく、いろいろなことを調べました。
 その結果、銀座線がどの通りのどのあたりを走っているのかなどが、わかるようになりました。例えば、末広町から神田の間で神田川の下を通る時がわかります。また新橋の近くで引き込み線があることも知っています。
 当時の壁新聞を保存していないので、連続して番号をつけられないのは残念なことです。

 壁新聞と調整日記を活用し、かつハイパーリンク機能を活用して、私の混乱した頭の中をうまく整理していくことができないかと考えています。
 そうすれば、本当に超整理日記の名にふさわしいものができるでしょう。


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