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安土城考古博物館の「戦国時代の近江・京都―六角氏だってすごかった!!―」に行ってきた

割と個人的なメモです。
なので、画像少なめです。
というか、写真撮れなかったので掲載したくてもできないのです…
画像は全部Wikipediaから拝借。

最初にざっくりとした感想

めっちゃ楽しかったです。
六角氏好きでなくとも、応仁の乱以降の京都情勢が好きな人には文句無しでオススメ。
足利将軍家や細川京兆家の書状や肖像画もたくさんあります。
というか、六角氏の肖像画が残ってないせいで、人物画は足利と細川メインです。
足利・細川好きの私は5時間以上見てましたwww
観音寺城も行くつもりでいたけど、絶対無理、時間足りなさすぎたww
こんなに見てられると思わなかったです。

印象に残ったこと・六角氏関連

☆観音寺城が歴史に初登場したのは太平記で落城したシーン
・いきなり落城からかいw
・解説でも「かっこわるいけど」と書かれてたw

☆六角高頼はやっぱり押領しまくりだった
・現地にいる武士を統率するために、中間マージンたくさんとってええよ、というスタンスだったらしい
・幕府が役にたたないんだから、自分が現地の武士を統率するしか無いということらしい
・なお、そのせいで幕府奉公衆が餓死してたとか、そりゃ攻め込まれますわ

☆学芸員さんは六角定頼の花押のことはケムンパスといってたw
・たしかに毛虫っぽいw
・花押は生涯変えない人もいれば、ちょくちょく変える人もいる
・六角定頼の花押はこの1つだけ

☆公家の鷲尾隆康の日記「二水記」
・六角氏が琵琶湖で船使って戦うために細川高国の船を神戸から陸路で運んでて、それを見たエピソードがあって興味深かった
・二水記は楷書体で読みやすかったけど、同じような当時の史料の大舘常興日記は崩し字で読めなかった
・なおどっちも江戸時代の写本
・学芸員さんに「こーいう本の展示、エピソード選んでページ決めるの大変では」と聞いたら、やっぱりめちゃくちゃ大変そうだった
・他にも紹介したいエピソードあるらしい
・コレ全部読んで決めてるのか聞いたら、論文とかでどこに何が書いてるかあるらしい
・とはいえ、やっぱり結構きっちり読んでるそうです

☆超長い書状
・六角承禎と義弼が嫁迎える問題でこじれた書状があったんだけど、めちゃくちゃ長かった

☆日本で最初の楽市
・六角定頼の書状で「楽市」の文字を探して見つけられなくて困ってたら、学芸員さんが教えてくれた、超親切
・崩し字読むの難しすぎ、無理

☆安土城の江雲寺御殿
・六角定頼の法名が江雲寺だけど、安土城に江雲寺御殿というのがあったらしい
・信長がどういう意図でそれを置いたかは不明、学芸員さんも信長の気持ちなんてわかるわけがないといってた、そりゃそーだw
・そもそも人間なんて、自分の気持ちだってわからんし、時間が経てば変わるものだし、とも言ってた

☆観音寺城の出土物
・常設展の方だけど、観音寺城跡から将棋の駒とか磁器とか出土してたのが面白い
・転生ものの小説で六角定頼主人公のがあって、少し読んでみたんだけど、将棋してたシーンがあったので、この出土品から発想したんだろうなぁ…小説書いた人ガチすぎるw
江雲記―六角定頼に転生した舐めプ男の生涯―

印象に残ったこと・足利氏関連

☆足利義政の書状
・足利義政、将軍退位後の書状があって、普通に政治に関わりまくりなのがよくわかる
・足利義政の書状を入れてた紙に「足利義尚」と書いてたんだけど、後世カンチガイで書かれたもので、筆跡がぜんぜん違う

どう見ても足利義尚な足利尊氏

☆どう見ても足利義尚な足利尊氏
・足利尊氏と言われてる肖像画を見たけど、足利義尚の肖像画とそっくりだった
・足利義尚のものと思われる肖像画はお寺では足利尊氏として伝わってるので、お寺側の要望で尊氏として展示してる

やけにやつれてる足利義晴の肖像画
やつれてない方の善晴

☆やけにやつれてる足利義晴の肖像画
・足利義晴の肖像画、やけにやつれてるなーと思ってたけど、死ぬ1日前に描かれたものらしい、ちゃんとその経緯が書物に描かれてた
・展示されてたのは有名な肖像画の絵の粉本だったけど、顔は全く同じだった
・ちなみに肖像画描いた土佐光茂は、足利義晴が近江に居た時に仮幕府を構えていた桑実寺に奉納した「桑実寺縁起絵巻」の作者
・桑実寺縁起絵巻、物語は三条西実隆が考えたらしい、たぶん頑張って伝承つなぎ合わせたり辻褄合わせしたんだろうなぁ…
・なお、やつれてなくてりりしい顔の足利義晴像もあって、そちらも展示されてました
・個人的には、そっちの方使ってあげればいいと思うのに、なんで死ぬ1日前にのやつれた顔が多く使われるんだろう…
・まぁでもあの顔は一度見たら絶対忘れないよね!


☆足利義澄の肖像画
・足利義澄の肖像画、額に結構しわがあって老けてたけど、美澄って若くで死んだはずなのになんでなんだろうなーと思った

ちょっと美化されてる足利義輝の肖像画

☆足利義輝の肖像画
・足利義輝の肖像画、粉本では頬のあたりが疱瘡の後で赤くなってたりしてたけど、完成画では綺麗にされてた、美化なのかもしれないとのこと
・足利義輝の肖像画は足利義政として伝わってたらしい
・なお粉本と現物では着物の柄が違う

・足利将軍は近江と京都行き来しすぎ、足取りを追おうとすると頭ぐちゃぐちゃになるw

印象に残ったこと・細川氏関連

☆細川政元の肖像画
・龍安寺の細川政元の肖像画が展示されるということで楽しみにしてたら、有名なやつと違った
・なんか細川京兆家の歴代当主の肖像画が書かれた絵巻だった
・勝元に比べて政元がえらい老けてたけど、死亡年齢同じくらいだったよーな…

細川高国の肖像画

☆細川高国の肖像画
・細川高国の肖像画は13回忌に高国を偲んで描かれたもので伝狩野元信画
・コレが一番見たかったので見れて嬉しかった

印象に残ったこと・その他

☆山法師の強訴の屏風
・山法師の強訴の屏風があったけど、なんでこんなシーン屏風にしたのか意味がわからない
・学芸員さんに聞いたけど、学芸員さんもなんでなのかさっぱりわからないといってたw・いやだって、普通合戦絵巻とか花鳥風月とか屏風にして飾りたいよね、なぜ強訴を飾ろうとしたんだろう…

・やたらと東寺に戦勝祈願させる文書が多かった、やっぱ密教の本場だからなんだろうか

・戦の時に寺社が巻き込まれないように、略奪禁止する文書も多かった
・木や竹を勝手に切るなというのが多かった、ほっといたら木材伐採しまくるんだろうねぇ…

学芸員さんと話したこと

・六角氏の展示は超大変だったらしい、「死んだ」といってたw
・大河で信長の時代ばっかやる理由がよくわかった、信長簡単だから、といってた
・全面的に同意、信長が来る前の畿内は魔境過ぎる、特に細川高国亡くなってから意味ワカラン
・展示の方はうまくまとまってたと思う

・肖像画は基本的に故人を偲ぶために描かれたものらしい
・足利義晴や細川高国のように作者や経緯がわかってるものはほとんどない
・細川澄元の肖像画に書かれてる年代は生前なので、生前に描かれたものかも?
・学芸員としては、経緯がわかったら書きたいので、書いてないものは大体わからない
・肖像画なんてそんなもん、源頼朝だって最近違うと言われてるし、誰が誰かわからないのも多い
・肖像画は描かれても残らないものもあるわけで、六角氏は滅亡したので残ってる史料が少ない

・細川京兆家のものはお寺に伝わって、その後に忠興系の細川家のところにいったものが多いらしい
・誰の手に渡ったか記録があるものはほとんどない
・というわけで、わからないことのほうが多い

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