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認知症と私の家族

先月に引き続き、今月も私の中では「POOLO強化月間」。5月上旬はPOOLOのメンバーで日本の西側に旅行へ行ってきた。その旅行で瀬戸内国際芸術祭の開催地・香川県に行き、最終日にハルナと高松にある四国水族館に行ってきた。

その時に、POOLOの1on1で初めて家族の話になった。お互いの両親との関係、姉弟姉妹との関係、祖父母との関係。色々話してたら、ふと2年前のこと思い出した。

就活ニート、祖父母の面倒を看る

2020年2月末にタイから帰国し、アルバイトをしながら就活しようと思っていた。ただ、当時は新型コロナウイルス感染症がとうとう日本へ上陸してきた頃。お店自体が営業できるか分からないからと、アルバイトの面接は取り消しになった。

何とかこぎつけた飲食店のバイトも、契約交わしてもお店を最低人数で回したり、休業になったりで入れる目途が立たない。

おまけに世は「買い物以外は外に出ないでね」期間。移動も制限され、「何もしない」ほど辛いことはない私(就活の準備はしてたよ)。

それを見かねた父は、父方の両親の家に居て2人の面倒を看てほしいという。父は片道3.5時間かけて祖父母の家から職場まで通っている。この生活を私が大学2年生くらいから始めたから、かれこれ4、5年はこの生活をし、認知症の祖父母の面倒を看てきた。

父親もさすがに弱音を吐きだした。でも自分が面倒を看ると約束したらしいから引かない、いや、引けないのかも。やっとのことで、老人ホームに預けようとしたところ、祖父母は「自分たちは大丈夫だからそんなの要らないよ」の一点張りだそう。

東京駅の長距離バスで約2時間。バスに乗るのは、タイへ行く前に2人へ顔を見せたぶりだったから、丸っと1年半振りだった。

人生で最もイラついた1か月

「あら、来てたの。来てるなら言ってちょうだいよ。」
祖父母の家に来てから、1週間経ってもなお、この言葉を祖母に毎朝言われ続けた。

小学生の時、この家に泊まるのは夏季と冬季の長期休みのうち数日ずつ。中学に進学してからは、長期休暇関係なしに部活があったので年に1度行く程度になり、大学生になると多くて2年に1度、どんなに滞在が長くても2泊だけになった。

そんな「おじいちゃんおばあちゃんっ子」から程遠い私は、タイから帰国し、コロナで行動が制限される間、祖父母の家に滞在することになった。

数年前から祖父母が認知症であることは、短期間の滞在や父の話から知っていたが、長期で2人と関わるとコミュニケーションがなんとも苦痛だ。

・以前からとにかく物が多い家だったが、今では整理整頓ができず、ごみの山と化した部屋に何とかスペースを作って寝る。
・一緒に朝ご飯を食べたことを忘れて、もう一度朝ご飯を食べさせてくる。
・私が家を片づけはじめても、1時間(最早30分)おきにお茶のお誘い有り。やっと床が見えたところで夕飯の時刻になる。
・祖母は炊飯したことを忘れて、常に4合の米を炊き続ける。この家は何人家族だ。お米を隠すと買いに行ってしまう、炊飯器を隠すと探し出しだすまで何もしなくなるから、張り紙をしたりテープを張ったりしてみる。
・気分転換に近所(タイのウタイターニーよりもなんもなくて浦しかない)で散歩をしてくることを告げてから出かけても、危うく警察へ捜索願を出されそうになる。
・父が今夜は帰宅しないことを何十回言っても忘れてしまい、何度も尋ねられる。

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そして、どうやら2人の中の私は、幼少期から16歳くらいまでを行ったり来たりするようだ。
2人の中で私は、「かわいい孫」であり続ける。

そんな日々を繰り返し、祖父母の一挙手一投足が全てストレスに思えた。
毎日のように同じことをされると、さすがに私も黙ってられない。かわいい孫の口調も思わず厳しくなる。父も結構怒鳴り散らす系なんだけど、負けじと私も「それもう要らん!」「触んないで!」と声を荒げてしまう。

それを聞いた祖母は、「いつのまにかボケちゃって、駄目だね、本当に。」と何か指摘するたびに言ってくる。

そんな言葉に心ぐるしくなる一方で、「そう思うなら何とかしてくれ」、そう思った時もあった。

また一人、他者を知る

ある日、いつものように私が目を離した隙に米4合を炊飯した祖母。
炊飯器に張り紙をして、セロテープで蓋を固定しても駄目だった。

これ以上どうしようもなくて、思わず笑ってしまった。私はついに祖母に降参した。

祖母は、「ゆきちゃんがいると、こうやって笑ってくれるから嬉しいね。来てくれてありがとう」と言った。

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それ以降、自分の中で、祖父母とどのように関われば良いかが見えてきたように思える。

認知症について簡単に調べると、思わずハッとさせられた。長期記憶で定着している行動は、認知症になっても忘れずにできるそうだ。

一緒にいる間、祖父母の昔話をよく聞かされた(何度も同じ話するから、どう話題を毎度違う着地にもっていくか試行錯誤しながら言葉のキャッチボールをする)。

祖母は、小さい頃から兄弟の中で炊事を任され、炊飯を忘れると家族みんながご飯を食べられないという環境の中で育った。
だから、炊飯だけは気になってしまい、米が視界に入らないと(入っても)すぐに炊いてしまう今がある。

相手の行動の理由が見えてくると、自分の相手への接し方を変えることができる。祖母との関わりで改めて気づかされた。

「いつ帰っちゃうの?こっちの学校に通えばいいのに」と、また同じことを言ってくる。今回はどうやって返答しようか。

祖父母の認知症を受けて決意したこと

祖父母の生き方を知って、決意したことがある。

①家の中でも一人でも楽しめる趣味をつくる
→認知症になっても一人で没頭できるものがあると少しばかり周りに迷惑をかけなくて済む。今から習慣づけないと、老後には繰り返せない。習慣付けするなら、今のうち。祖父(祖母)の趣味は船の操縦とか旅行とかだった(祖父が祖母を付き合わせてただけ)。認知症になってもできる趣味が欲しい。

②両親の老後について考える
→当たり前だけど、自分より両親が先に老いる。自分のやりたいことが、家族のフェーズによってできなくなることもしばしばあるわけで、先に両親が老後はどのように生きたいのかを知っておいたほうが安心だと思った。また、認知症を患ってからは未来のことを話しにくくなる。

POOLOで自分の「豊かさ」について考えるけど、それは自分が他者の問題に縛られていない状況下にあればの話。家族の問題が私自身に降りかかったとき、私の生き方、暮らし方はどうなるんだろう。

あとがき

家族と認知症については、当時Facebookで書いたからリバイスなんだけど、改めて思い起こすいい機会になった。現在、祖父母は父の職場の近くへの転居とホームへの入居が決まった(ここ1年以内に祖母が迷子になったり、諸々事件が起きていたりしたので、もう手を打たないといけない状況だった)。

父が実家に通って6年近くになるが、昼間に祖母と話すと「(父)は全然こっちに帰ってきてくれないのよ」と言葉を放った。父の努力は、家族への労いは、いつ報われるんだろう。

家に帰ってきて、昨年の母の日と父の日は、エンディングノートを贈った。(「まだまだ早い」と言って、とっても嫌がられた。)今もまだ、どちらのエンディングノートも記入した形跡は無く、ほこりがかぶってきた。

おまけに近況を報告すると、あれからコロナを言い訳に一度しか祖父母に会っていない。
相変わらず「祖父母不孝」な私だけど、多分、このスタンスは変わらない。


最後に、
認知症のことが分かる、良い漫画を見つけたので、もし興味あれば!
http://www.webchikuma.jp/category/ninchisho

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