「普通になりたい私を、私だけは肯定したい」理由

 ずっと、「普通」になりたかった。要するに、心臓がちゃんと、2つの心房と2つの心室でできていてほしかった。単心房単心室でなくて。
 無脾症候群じゃなくてちゃんと脾臓がほしかったし、階段を登っても、息の上がらない体が欲しかった。皆と同じように体育だって、本当はちょっとやってみたかった。たぶん。
 就活のときだって、私は障害者雇用の枠で就活した。そのことに後悔はない。病院のときだって休みやすいし、上司が変わっても話がすでに通っていた。後悔は、絶対にしてない。大学生のときにお世話になった先生だって、「そういう就活の1パターン」として捉えて相談に乗ってくれた。
 でも、本当は去年、少しだけ。本当に少しだけ、同期の姿を眺めて、「私は入口が違うんだな」と思ったのもまた事実なんだ。入口が違っても同じ道を歩けるようにしてくれる勤め先だから、別に気にしなくていいんだけど。

 ずっと、普通になりたかった。その他大勢になりたかった。でもその理由がわからなかった。

 このことを、ずっと考えてきた。どうして私はずっと普通になりたかったのか。

 理由らしきものを、私はようやく見つけた。抗いたかったのだ。

 私が自分の意思で選んだイレギュラーな選択ならば、たとえ普通じゃなくても、どんなに周りと違っても、私は自信を持ってその道を選んでいける。でも難病は違う。これは私の意思で選んでいないものだ。100分の1で引いてしまった、「心疾患」というクジ。これは決して、私が自分の意思で引いたものじゃない。

 自分の意思で選んでいない「普通じゃない」状態に、抗いたい。ただそれだけだった。

 普通になりたいのに、なぜネットで持病について書いているのか、自分でもわからなくなる時があった。ネットでは何も言わない限り、「普通」でいられるのに、と。なぜ自分からカミングアウトするようなことをしているのか、自分でも疑問だった。矛盾していると、ずっと思っていた。

 でも、ようやくわかった。抗いたいのだ。障害は個性だとかいう考え方に、普通じゃなくてもいいという考え方に、自分の意見を述べることで、抗いたい。そのためには、私自身が、自分の障害について書く必要がある。だから、私は書くことを選んだんだ。そのことに気がついたとき、なんだかすごくすっきりした。ようやく自分の気持ちに整理がついた。

 普通になりたいと思うことは、普通じゃないことに抗いたいから。普通じゃないことを書くのは、普通でなくてもいいという風潮に抗いたいから。根底にあったものは、ただ「抗いたい」という感情だけ。私はただ負けず嫌いというか反骨精神というか、そういうものがあっただけだった。

 普通は人それぞれ。世間の言う普通になる必要はない。人と違っていい。そういう考え方で救われる人だって、確かにいるだろう。でも私はそうじゃなかった。私は普通じゃないことに救われなかった。人と違うことは苦しかった。できないことが積み重なることが嫌だった。私は救われたいから抗いたい。そして、普通になりたい私を、私だけは肯定したい。何に抗ったって、世界に1人の私を肯定したいから。