「仮面ライダーギーツ」全体感想

 こんにちは、雪乃です。1年間追いかけた『仮面ライダーギーツ』が、とうとう完結してしまいました。ということで、今回は全体感想を書いていきたいと思います。

 ギーツが動いている姿を初めて見たのは、昨年の夏映画。そこで私は、自分が恋に落ちる音を聞きました。
 神々しさと親しみやすさの同居する、狐面をモチーフとした仮面。白・黒・赤というカラーリングは洗練されていてヒロイックで、カッコよくて色気もある。横顔は正面よりもキツネ感が強くて、ツンと尖った鼻が可愛くて。とにかくデザインに一目ぼれした仮面ライダーでした。
 
 1話からギーツを追いかけてきて、そして迎えた最終回。

 ブーストライカーに乗ったマグナムブーストフォームのギーツが現れたあのシーンで、涙腺が崩壊しました。
 もうね、勝手に涙が出てきたんですよ。そのとき、「私って、自分が思うよりもずっとギーツが好きだったんだな」と気づきました。好きだという自覚があったからベルトもグッズも買ったしイベントも行ったんですけど、まさかここまでとは思わなかったです。自分でも驚きました。

 『仮面ライダーギーツ』は私にとって、たくさんの「初めて」をプレゼントしてくれた作品でもあります。
 初めて仮面ライダーの変身ベルトを買ったこと。初めて仮面ライダーのフィギュアーツをお迎えしたこと。初めて仮面ライダーの撮影会に行ったこと。初めてヒーローライブスペシャルに行って、初めて仮面ライダーのヒーローショーをちゃんと観たこと。
 そして、初めて同一テーマで短歌を50首以上作ったこと。
 詳しいことは下の記事に書いたのですが、『仮面ライダーギーツ』を題材に、短歌を54首作りました。どのキャラクターもすごく魅力的だったからこそ思い切り短歌に取り組めて、すごく楽しかったです。

 またアーツだけでなくぬいぐるみもお迎えしたのですが、ギーツとタイクーンはお揃いでケープを作ってみたりもしました。

 あとモンスターバックルが可愛かったので、ぬいぐるみを作ったりもしてます。振り返るといろいろしてるな。

 『仮面ライダーギーツ』は、「リアリティーショー」や「推し活」を積極的にドラマに取り入れていました。
 特にリアリティーショーを通じて「人の人生をコンテンツをして消費する危うさ」を描き、その上でギーツ推しの未来人・ジーンが「推しは1人の人間であり、それぞれの人生がある」ことに真剣に向き合ったエピソードは、ギーツ屈指の神回であると思っています。
 ジーンやキューンなど、推しの人生に真面目に向き合って推しのために戦ったサポーターがヒロイックに描かれる一方、推しの不幸ですら躊躇うことなく、それどころか嬉々として消費するケケラやベロバが悪役として倒されるのもまた、現代的なヒーロー観だったよなあと思います。まあ私は大好きでしたけどねベロバ様。悪役最高。

 
 デザイアグランプリは、未来人が過去の人間が仮面ライダーに変身して戦うさまを観て、ライダーを推して楽しむためのリアリティーライダーショーでした。

 遠い未来では人間はデータとなり、人生が自由自在にデザインできる時代になっていました。寿命すらあらかじめ決められているから、死に際した哀しみもない。
 しかし何もかもが思い通りになってしまうということは、それだけ退屈ということでもあります。そこで娯楽として求められたのが、「思い通りにならない時代」を楽しむショーでした。
 
 エンターテインメントというものは、現実が思い通りにならないからこそ求められるものであると思っています。しかし未来においては現実世界こそ思い通りになってしまうので、エンタメとしては「むしろままならない現実を生き、もがく人間の姿」が求められ、そんなコンテンツが生産され、消費される。それが本作の描いた未来の姿でした。
 現代における「思い通りにならない現実⇔思い通りになる娯楽の世界」の関係が、未来においては「何もかも思い通りになってしまう(ゆえに退屈な)現実⇔思い通りにならない(様を眺めて楽しむ)娯楽」と反転する。この現実と娯楽の関係性の反転こそが、デザイアグランプリを、SFらしさのある未来人の娯楽たらしめていたと思います。

 そして絶対に外せないギーツの魅力といえば、やはり毎回キレッキレだったアクション。こと「絶対的に強い1号ライダー」を描き続けることに関しては一貫してめちゃくちゃ良かったです。 リボルブオンを利用した回避など、ギーツならではのアクションによる演出も毎回決まっていて、もうそこが本当に好きです。あと私は銃を近接戦闘で使った上にビートアックスは投擲するバッファが無限に愛おしい。
 ギーツは1話につき絶対1回は絶対に記憶に残る鮮烈なアクションシーンを作ってくれるので、このあたりに関しては毎回安心して観ていました。見ていてテンションが上がる、純粋に「仮面ライダーってカッコいい!」と思わせてくれるアクションはどの回も最高でした。
 どんなバックルを使っても一貫して強かったギーツと、戦闘スタイルが大きくは変わらなかった……というか最終回まで初期のゾンビバックルで粘ったバッファに対し、アクションが変化していったのがタイクーンとナーゴ。この2人のアクションが洗練されていき、この2人らしい戦闘スタイルを身に付けていくまでが本当に熱かったです。

 キャラのことに関してはほとんど短歌にしてきたので、短歌にしていないことでも書いていこうかな。

 ギーツは、最終的には「コンテンツの在り方」というより普遍的なテーマに昇華されてはいきましたが、乖離遍あたりまではしっかりリアリティーショーをやっていました。

 さて、私自身はリアリティーショーというものを見た事がありません。というわけで『仮面ライダーギーツ』のリアリティーショー設定が明らかになったときに参考にしたのが「『テラスハウス』ショック①~リアリティーショーの現在地~」という、村上圭子氏によるリアリティーショーに関する先行研究です。この論文(ネットで読めます)にはリアリティーショーの歴史を概観することができるので、そちらを参考にしつつ、『仮面ライダーギーツ』における「リアリティーショー」要素について見ていこうと思います。

 ではまず「リアリティーショー」の定義から。先行研究では、

2012年にニュージーランドのオークランド大学のミッシャ・カブカ博士は著書『リアリティーテレビ』で、「リアリティーテレビとは、最も簡単な言葉で定義すれば、「プロの俳優ではない人が、事前に設定された環境の中で、カメラによって観察される台本がないショー」である」と定義している。

と紹介しています。

 続いてリアリティーショーの歴史をざっくりと書くと、その始まりは1990年代に遡れるようです。しかし本格的にリアリティーショーがコンテンツとして広がっていくのは少し後。『ビッグ・ブラザー』、そして『サバイバー』という番組が登場します。

 『ビッグ・ブラザー』とは出演者が『ビッグ・ブラザーハウス』で送る、9週間の共同生活を描く番組です。『ビッグ・ブラザー』は、視聴者が生き残る出演者を選ぶ権利が与えられています。

 『ビッグ・ブラザー』と並ぶ、リアリティーショーを普及させたもう1つのコンテンツが『サバイバー』です。これは無人島に送り込まれた出演者が過酷なゲームに挑む、サバイバルもののリアリティーショーです。
 この『サバイバー』はYouTubeで視聴可能なので少しだけ見たのですが、英語が全く分からなかったので、ひたすらに景色が綺麗だったことと虫が異常にデカかったことくらいしか覚えていません。ちなみに『ビッグ・ブラザー』のフィリピン版である『ピノイ・ビッグ・ブラザー』も公式で配信されているダイジェストを見たのですが、『サバイバー』以上に言葉が分からなかったので無理でした。

 視聴者が脱落する出演者を決めることが出来た『ビッグ・ブラザー』に対し、『サバイバー』は出演者が投票で脱落者を決める方式をとっています。

 この後先行研究ではリアリティーショー黎明期から指摘されてきた問題点にも触れているのですが本記事はあくまで「『仮面ライダーギーツ』の感想」ですので、内容を少し飛ばして、先行研究が提示するリアリティーショーの類型をいくつかピックアップしていこうと思います。

 村上氏はリアリティーショーを「チャレンジ系」「デート・求婚系」「タレント・オーディション系」「メイクオーバー系」「セレブリティー系」「日常生活系」の6つのジャンルに分けているのですが、本記事ではその中でも「これはギーツっぽいんじゃ?」と思ったもののみ書いていきます。

 まずは「チャンレンジ系」から。この定義は、

『ビッグ・ブラザー』『サバイバー』をルーツとするジャンルである。出演者に一定の期間、特定のシチュエーションに身を置いてもらいながら、肉体的な試練や精神的な葛藤の中で、判断力や障害に打ち勝つ力を試される内容のものを対象とする。勝ち抜いた出演者は褒賞を得ることができる。

 「デザイアグランプリ」というリアリティーショーは、この「チャレンジ系」のフォーマットをかなり忠実になぞったといえるのではないでしょうか。
 謎の敵「ジャマト」から世界を守るというゲームという、ライダーたちが置かれたシチュエーション。「肉体的な試練」はアクションで、「精神的な葛藤」はキャラクターどうしのやりとりや駆け引き、友情を通じて描かれてきたと言えます。
 最後まで勝ち残ったライダー=デザ神は理想の世界を叶えることが出来る、という設定においても、「勝ち抜いた出演者は褒賞を得ることが出来る」という、チャレンジ系リアリティーショーの特徴と一致します。また「乖離遍」で描写された作中の視聴者による人気投票や、ライダー自身が脱落者を決める投票システムは、『ビッグ・ブラザー』と「サバイバー』の要素を兼ね備えているといえます。

 また、もうひとつ触れておきたいのが「セレブリティー系」というジャンルです。

リアリティー番組誕生期は一般人、いわゆる”素人”を出演させるのがリアリティーショーの典型的スタイルだったが、次第にタレントや資産家等のセレブリティーを出演者に起用する番組も増えてきた。

 ギロリがゲームマスターを務めていた頃のデザイアグランプリは、(ギーツやバッファなど何度も参加しているライダーもいるとはいえ)、多くの素人にドライバーをばら撒く形式を取っていました。(そのせいでツムリちゃんが「妖怪無差別当選女」と呼ばれていたのがもはや懐かしい。)
 しかしオーディエンスの反応を重要視するチラミがゲームマスターになると一転、クイズ王やアスリートといった有名人を出演させる番組となり、デザイアグランプリは大きな方向転換を遂げます。ここでデザイアグランプリのリアリティーショーとしての在り方が明確に変わったと言えます。

 この「素人を集めた番組から有名人を集めた番組になる」という流れもまた、セレブリティー系リアリティーショーが出現した現実世界のリアリティーショーの歴史と重なるものがあるのではないでしょうか。

 また「乖離遍」で描かれたライダーたちの共同生活というのは、『ビッグ・ブラザー』の頃からあったリアリティーショーのフォーマット。「乖離遍」は、「チャレンジ系」と「セレブリティー系」のハイブリットだったと言えます。

 先行研究では欧米のリアリティーショーのみならず、日本のリアリティーショーに関しても触れています。先行研究では「電波少年」や「あいのり」を例に挙げつつ、日本のリアリティーショーは「ドキュメントバラエティ」という言葉を用いて表現されてきたことを指摘しています。

 ギーツにおいて、出演者が受ける試練は一貫して「ゲーム」と表現されていました。このゲーム、ゾンビサバイバルであったり脱出ゲームであったり、果てはジャマト語の解読をしないとクリアできなかったり。ジャマーボールという球技だったこともありました。この「ゲーム」から醸し出される、中盤までのデザグラ特有のなんとも言えないバラエティ感と、それをリアリティーショーとして放送するスタイルは、まさしく日本らしいリアリティーショーである「ドキュメントバラエティ」的であったのではないか……?と私見を書いておきます。

 現実世界のリアリティーショーの類型を踏まえると、ギーツは「生き残りを賭けたサバイバル」「脱落者を決める投票制度」「共同生活」など多くの点において、リアリティーショーの黎明期から存在したオーソドックスなフォーマットを踏まえています。そういったことから、『仮面ライダーギーツ』は「リアリティーショー」という題材に対しては忠実だったなあというのが、1年間番組を見た私の印象です。

 そして「デザイアグランプリ」になくてはならないのがオーディエンスです。

 劇中でオーディエンスの存在が描写されたことで、何か起きたのか。

 それは、「視聴者が作中のオーディエンスと同一化され、物語に巻き込まれた」ことにあると思います。
 人の生死がかかったゲームを楽しむオーディエンスと、本質的には変わらない我々視聴者。「あなたもこのショービジネス化されたデスゲームの加担者ですよ」と突きつけられているような感覚は大変ゾクソクするものがありました。

 オーディエンスたちの行為は純粋な応援か、あるいは単なる消費か?そんなことを現実世界の視聴者に問いかけながらも、「浮世英寿は1人の人間である」という事実を自分なりに咀嚼し、「自分の人生を生きることも大事だよね」という結論に至ったジーンの姿は胸に迫るものがありました。「リアリティーショー」にしろ「推し活」にしろ、「他人の人生をコンテンツとして消費する行為」の孕む危うさを踏まえつつ、現代らしくも爽やかな落としどころに辿り着いたと思います。

 一方で、「仮面ライダーは応援してくれる人がいるからこそ戦える」という、推し活の良い面を描いたのが夏映画です。

 夏映画では、観客全員がオーディエンスとなり、仮面ライダーを応援する映画でした。今になって思うと終盤はかなりキングオブプリズムだった気もするのですが、「推し活」の功罪を描いたギーツだからこそ、「純粋な応援はヒーローの力になる」ことを力強く、確かな説得力を持って描き切ってくれたのも、集大成として相応しい展開でした。

 リアリティーショーの話ばかりになってしまいましたが、仮面ライダーギーツのメインテーマは「諦めなければ願いは叶う」という真っ直ぐなものでした。

 英寿様が最後に神になるという最終回も、「神になった」と同時に「世界と一体になってどんなときも見守ってくれる存在となった」と感じられるような描き方をしていて、とても爽やかなもの。

 私はこの、ギーツが持つ爽やかさが好きです。

 最初こそ、「理想の世界を叶えられる」という見返りのために戦っていた仮面ライダーたちが、いつしか見返りもなく、純粋に世界を守るためのヒーローになっていく。
 「仮面ライダー」の定義が、いつしか「デザイアグランプリの出演者」から「世界を守るために戦う存在」に変わっていく。
 そんなヒーローの姿を、1年間真っ直ぐに、爽やかに描いてくれた。私はギーツの、そういう面が大好きです。

 オーディエンスとなり、物語と一体となって、物語に巻き込まれた1年。本当に本当に、楽しかったです。

 さて、来月はいよいよファイナルステージに行きます。人生初のファイナルステージ!冬映画もあるし来年にはVシネもあるし、まだまだギーツは終わりません。

 仮面ライダーギーツ。1年間、本当にありがとう。そして仮面ライダーガッチャード。1年間よろしくね。

 本日もお付き合いいただきありがとうございました。

参考文献

村上圭子「『テラスハウス』ショック①~リアリティーショーの現在地~」『放送研究と調査70(10)』 NHK放送文化研究所 2020年
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bunken/70/10/70_2/_pdf/-char/ja
 

 

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