毒親からの解放ストーリー (4)

 

 当時の日本は想像もできないほど貧しかった。食べ物さえも手に入れることが難しく、着るものに不自由していた。だから毛糸をほどいては編み直していた。子供には、寄せ集めの毛糸で編んだ、縞々のセーターを作っては着せていたし、スカートやズボンもお母さんの手作りを着せていた。

 当然見栄えは良くなかったが、どの子も同じ様だったので、子供同士で比べるというような事も無かった時代だった。そんな時代でも私の母は祖母や伯母さんがちょっとした刺繡やアップリケを施してくれて、可愛いスカートなどを着ていたらしい。それでも祖父が生きていたころの戦前の裕福な生活が忘れられなかった母はいつも食べ物や洋服に対して不満を祖母にぶつけていた。

 私が小学校に入学する前のことだ。祖母の家に遊びに行った時など、玄関で靴をそろえてから部屋に上がると、祖母も伯母も頭を撫でてほめてくれた。それがとっても嬉しかったことを今でも覚えている。

 しかしそんな時でさえも、母はみんなの前で、が小学校受験の時にお漏らしをしてしまった失敗を大袈裟に、面白おかしく話して、皆の笑いを取ったものだった。そうやって私に恥をかかすのが常だった。私を大勢の前で晒し者にして、私の脳みそに、ダメな私を刷り込ませようとしていたのかもしれない。

 そんな私でも、無事お受験に成功した。自宅からバスで十五分程の私立小学校だ。 今思えば、私の家から歩いて数分のところに公立小学校があったにもかかわらず、わざわざ遠い私立の学校に行かせたのは、私を隔離し、洗脳して、母に絶対的服従をさせる為だったのだろうか。そのようにして地域の子ども達と接触をさせないようにしたのだろうと、今はそう考えている。

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