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先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 -津山の洋学(蘭学)-)17 #066


みなさん、こんにちは。
秋も深まって来ましたね。先日、図書館の横を歩いていたら、クモの巣ツリーを発見しました。なかなかセンスのあるクモだな…と思い、写真を撮りました。


さて、本題。先祖が生きた地、岡山県津山市の歴史を調べて17回目です。前回の記事は江戸時代の教育について調べました。

1.今回は津山の洋学(蘭学)

今回から、津山の洋学(蘭学)について調べていきます。


洋学(蘭学)と言えば、杉田玄白の『解体新書』を思い浮かべる方が多いと思います。私自身も歴史の授業で学びましたが、それ以上の深掘りはしていませんでした。
しかし、調べていると洋学(蘭学)と津山に深いつながりがあったことを知り、驚きの連続でした。


2.調べ始めて気付いたこと

そして、私が長年抱いていた小さな疑問に光が差したような気がしました。

その光とは「津山に、多くの歴史的資料が遺されているのは、津山が“歴史の拠点”だったから」ということ。

津山市は、私の暮らす市とは比べものにならないほど多くの歴史資料や物が遺されていて、大切に保管されています。図書館の歴史コーナーも充実していて、それらを書く郷土史家の方がたくさんおられます。

「同じ県北なのに、なぜここまで歴史に対する価値観が違うのだろう…」と、私は以前から疑問に感じていたのですが、「津山という地が、歴史的に重要な意味を持っていた場所だったから」と思ったのでした。

津山城もあるし、城下町の保存もされています。

津山市立図書館から見える津山城
津山の城下町(城東地区)


考えてみれば当然のことなのですが、津山の歴史を調べれば調べるほど、羨ましい気持ちになっていました。その答えがひとつ見つかった感じがしました。

いきなり、感想からお話してしまいました。

今回は、洋学(蘭学)とは何なのかを整理し、津山の洋学の始まりを少し紹介しよう思います。

3.洋学(蘭学)とは

洋学と蘭学。「西洋の学術」で、ほとんど同じ意味ですが、少し違いだけがあります。

洋学と蘭学の違い

幕府が鎖国政策を続ける中で、8代将軍吉宗は、キリスト教以外の洋書の輸入を許可し、西洋の医学、天文学などを取り入れようとしました。これを契機に、オランダ語の書物が長崎の出島を通じて日本へもたらされました。

当時、用いられた文献は、オランダ語のものが中心だったので、「蘭学」と言われるようになりました。

しかし、1853年の開国によって、オランダだけではなく、欧米各国との交易、通商が始まった結果、「西洋の学術」を総称する「洋学」が広く使われるようになりました。

蘭学の始まり『解体新書』

蘭学と言えば、杉田玄白の『解体新書』です。『解体新書』は、日本最初の西洋医学の訳本で、出版されたのは1774(安永3)年。

それまで見様見真似の医術が、『解体新書』によって文字を通して体系的に紹介されました。

※NHK for Schoolは、私の仕事現場でも使わせていただいています。素晴らしい教材です。

4.津山藩医 宇田川玄随

津山藩にも優れた洋学者がいます。その1人が宇田川玄随です。杉田玄白の『解体新書』は外科の本ですが、日本で最初の西洋内科の翻訳書『西説内科撰要』を書いたのが、宇田川玄随です。


次回は、宇田川玄随について詳しく調べていきたいと思います。

津山洋学資料館にも宇田川玄随の石像があります。
※津山洋学資料館は、前述した城東地区内にあります。

ピンク線が城東地区

洋学資料館の入り口を入り、駐車場から奥を見ると、津山にまつわる洋学者たちの石像が並んでいます。

宇田川玄随の石像



読んでくださりありがとうございます。次回もよろしくお願いします。

【参考文献】
『津山学ことはじめ』津山市 平成12年10月
『津山市史 第四巻 近世Ⅱ 松平藩時代』 平成7年3月 津山市
『津山市史 第五巻 近世Ⅲ 幕末維新』昭和49年3月
『わたしたちの津山の歴史』平成10年1月 津山市教育委員会
『郷土 津山』津山市教育委員会 平成25年3月
『蘭学の競演』武雄市図書館.歴史資料館平成31年
『ぺりーが来たぞ!』津山洋学資料館 平成20年10月
『それぞれの日蘭交流』津山洋学資料館 平成12年8月
『素晴らしき津山洋学の足跡』津山洋学資料館 平成16年
『宇田川三代の偉業』津山洋学資料館 平成元年11月
『蘭学事始ぴあ』ぴあ株式会社 平成30年1月
『蘭学事始』長尾剛 PHP研究所 平成18年12月
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