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先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代の教育)16 #065


1.ご無沙汰しています。

みなさん、こんにちは。
ずいぶんご無沙汰してごめんなさい。“エネルギー切れの自覚と、消えることのない焦燥感”を抱えながら、時間が過ぎていました。

noteに関する焦燥感の正体はなんだろう…と考えると、それは、「どうしても気になる」と言うこと。noteのことが気になって、週末になると「休みたい」「休まなきゃ」と思う反面、「津山へ行ってみよう」「調べを進めよう」と思ってしまうのでした。

ちょこちょこ取材へ行ったり、資料を集めたり。そんな自分を客観的に見ると、私はこんな活動が好きなんだな…と思い、少しずつ進もうと決めました。

noteは既に私の生活の一部(何を書こうか常に考えてる)。以前より、周りを見渡し、色々考え、心が揺れていると思います。知らないことをたくさん知れる充実感もあります。

みなさんへの感謝とともに、これからも少しずつ進めていきたいと思います。よろしくお願いします。

2.今回の記事は…

先祖が生きた岡山県津山市の歴史を調べて16回目です。

前回の記事…先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 -森藩から松平藩へ-)

今回から、江戸時代の津山の教育について調べていきます。松平藩時代の時代です。

この時代から津山の教育は前進しはじめます。

←の部分を数回に分けて調べていきます。


少しわかりやすく図にすると以下のようになります。


松平藩は1694(元禄7)年〜1868(明治元年)年 の間、9代、174年間続きました。その中で、津山の教育が盛んになったのは、5代藩主 松平康哉の時代からでした。

松平康哉…1752〜1794。享年43歳。治世33年。


3.津山にある3つの教育の場

①武士の子どもが学ぶ【学問所】

1765(明和2)年、松平康哉によって、武士の子どもを教育する学問所(11歳から5年間)がつくられました。

学問所では、漢学、洋学、算学、兵学、弓、馬、槍…などを修業しました。

1807(明治3年) 、【学問所】は【修道館】と名前を変更し、武士以外も通学することを許されました。

1858(安政5)年、藩校の制度が整い藩校内の職名も定められ、1904(明治37)年、現在の津山城跡内へ移転され、名前は【鶴山館】に変更されました。


  【学問所(鶴山館)】に行ってきました

2023年9月末、津山城跡内にある【学問所(鶴山館)】に行って来ました。営業終了時間は17時。私が到着したのが16:45!

「鶴山館を見るだけなのですぐ戻ります!」と310円を払うと受付の方に「B'zですか?」と尋ねられました。「ん??いいえ、違います」と答えた私。

真相は後ほど。

津山城入り口


急げー!備中櫓などメインストリートとは反対側の階段を駆け上がります。

左上を見ると、備中櫓が見えます。【鶴山館】は右の建物です。(中央の小さな建物はお手洗い)

【鶴山館】


見にくくてごめんなさい


そして奥を見ると…B'z!

受付の方はこの事を言われていたのですね。


2017年7月に津山で、B'zのコンサートがあり、そのパネルが飾られていました。

※B'zの稲葉さんは津山市出身です。
↓詳しくはこの記事に書いています♫
先祖が生きた地.岡山県津山市(現代編)2 #041

このパネルを鶴山館に飾ろうと言った発案者はどなたなんだろう…。

見学時間5分!写真を撮り急いで津山城を出ました。

津山城南側の階段


②庶民教育の施設 【寺子屋】

津山にも多くの寺子屋がありました。約30ヶ所。(寺子屋は民間施設)

寺子屋で勉強したのは、農民や町人の子どもたち。先生は寺のお坊さん、神社の神主さん、村の庄屋、医者でした。

まずは、ひらがな、数字、干支など、すぐに役立つことを習い、『往来物』という教科書を学びました。商売往来、農業往来、庭訓往来…など。

『庭訓往来』

庭訓往来(ていきんおうらい)は、1年各月の手紙文の例をまとめたものです。

さらに、『論語』を学ぶものもいました。女子は『女大学』などを学びました。


※このような民間の寺子屋とは別に、藩の指導で設立された庶民教育施設がありました。


③庶民教育の施設 【教諭所】

1842(天保13)年、小性町(こしょうまち)堺町に【教諭所】が設けられました。

この時期は、天保の改革と言われる藩政改革の最中で、人々の教育が論議された時期でした。社会全体が藩の思う通りにはならない原因は、人心の荒廃にあると考えられていました。

教諭場は、「不平を言わず一生懸命働くよう教育する」のが目的でした。

理念は「実意ニ職分働候様」。そのため「読み書き算盤」ではなく、儒教に基づく道徳的な内容が中心で、男女、子どもから大人までが対象でした。


  教諭所の場所を探しました

【教諭場】があった場所ははっきりしていませんが、小性町か堺町にあったとされています。

小性町.堺町と、津山城の位置関係。

赤丸の位置が、小性町.堺町です。


赤丸部分を拡大すると…↓

【教諭所(教諭場)】があったとされる場所↓。


この写真と同じ場所を探しました。↓ここだと思います。


4.まとめ

江戸時代から始まった、津山の3つの教育の場をまとめました。

この時代から、農民や町人にも学ぶ機会が与えられたこと、そして、学びの歴史の大きな一歩がこの時代にあったことを知りました。

私自身の話になりますが、現在、私は不登校の児童生徒たちに関わる仕事をしています。私の暮らす地域(田舎)でも、子どもたちの生き方や、学校教育への価値観が変化しつつあります。

それをどう捉えるのか…非常に難しい問題です。私個人的な考えはありますが、義務教育の現場で仕事をしている立場上、日々悩んでいます。

江戸時代、この地に私が生きていたなら、単純に学べることを幸せに思うのではないか…と思うのですが。

寺子屋で学ぶ子どもたちにインタビューしてみたいです。「勉強は楽しい?」。同じ質問を私が関わっている子どもたちにするときっとこう答えるでしょう。

「……。(首傾げる)」


5.今後の予定

次回は、津山の洋学についてです。

幕府が鎖国政策を続ける中で、8代将軍吉宗がキリスト教以外の洋書の輸入を許可したことから、洋学(蘭学)の気運が広まりました。

津山にも優れた洋学者が多くいます。

その時代や彼らのことを詳しく紹介した、「津山洋学資料館にも見学に行きました。

今後、数回に分け、津山の洋学者について調べていこうと考えています。

津山洋学資料館の写真の一部を紹介しますね。見学日は2023年8月20日。

とっても暑い日でした。


次回もよろしくお願いします!

【参考文献】
『津山学ことはじめ』津山市 平成12年10月
『津山市史 第四巻 近世Ⅱ 松平藩時代』 平成7年3月 津山市
『津山市史 第五巻 近世Ⅲ 幕末維新』昭和49年3月
『わたしたちの津山の歴史』平成10年1月 津山市教育委員会
『郷土 津山』津山市教育委員会 平成25年3月
『蘭学の競演』武雄市図書館.歴史資料館平成31年
『ぺりーが来たぞ!』津山洋学資料館 平成20年10月
『それぞれの日蘭交流』津山洋学資料館 平成12年8月
『素晴らしき津山洋学の足跡』津山洋学資料館 平成16年
『宇田川三代の偉業』津山洋学資料館 平成元年11月
『蘭学事始ぴあ』ぴあ株式会社 平成30年1月
『蘭学事始』長尾剛 PHP研究所 平成18年12月
『津山城および津山の景観』昭和38年1月 杉山宇三郎
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