生と死を考える

重ったらしいテーマにしてしまったが、今日の東京は曇天で雨も降ってきたので、コロナ罹患中だが昼からワインを飲みながら書いてみる(基本抗生物質を飲んでいようが子どもと一緒にいようが車を運転しない限りワインは飲んでいる)。

身近で死を感じる機会が訪れた。自分の意思で死を選択しようとしているその方は、私とそんなにお付き合いがあるわけではないが、それでも人生の最後に誰かに何かを聞いてもらいたいような、何かを残したいような、そんなそぶりがあった。私はそれをどう受け止めるべきか、考えあぐねている。

私の死生観は多分独特だ。毒親に物心が付いた4歳くらいの時から毎日「死んじまえ」と言われていた影響で、「死にたい」と思う癖がついてしまい、死を考えることはトイレに行くのと同じレベルの日々の習慣になってしまっていた。「死にたい」ということは要は「逃げたい」ということなのだが、親の絶対的支配下にいる子どもは逃げられないんだから「死にたい」と思うしかないのだ。実際自分の親しい人が亡くなるなどの経験はしていないので、そうした死への「憧れ」は絵空ごとでしかなく、早めの厨2病の一種のようにもみえる。だが4歳から「死にたい」と毎日考え続けてきてしまった人は、「死にたい」と思うことが生きることの一部になってしまうのだ。こればっかはそうだとしか言いようがない。

毒親に支配され苦しかった日々を乗り越え、知恵も付いてきて次第に「死にたい」と思わなくなった代わりに頭に浮かんだ単語は「ちゃんと生きたい」ということだった。毎日「どうやって死のうか」と頭を占めていたのが、代わりに毎日「どうやってこの人生充実させてやろうか」と思うようになった。何故、どのタイミングで急にこの単語の置き換えが起こったのかわからない。「死」にとらわれていたのが「生」にとらわれるようになっただけで、生死について日々考える習慣そのものは変わっていない。死と生はかようにも隣り合わせだ。

以来私は生きることに非常に貪欲で、「どうやって生きていくか」という考えに支配すらされている。「行きたいところに全部行きたい」と思ったら取り憑かれたように旅に出る。「自転車で日本を一周したい」と思ったら何があろうがやりきった。余すことなくこの世の中のおよそ全てを楽しんでやる、と鼻息が荒い。この傾向は今のところまだ続いているのだが、怖いのはこうした希望や野望が全て叶えられたり、叶えられないことがはっきりしたりした時だ。「もう死んでもいいや」とまた単語の置き換えがされて今度はまた死にとらわれる日々が続いてしまうのではないかと本気で危惧している。なぜなら死や生を考えないという日が40年ほど生きていて全くないからだ。まだ死にはとらわれたくないから、目標を達成してはまた新たな目標を達成しようと自分を奮い立たせる。目標がある内は生にとらわれていられる。

脱線するが、こうした私の死生観はおそらく現代日本ではドン引きされるのが火を見るより明らかなので胸にとどめているが、考えてみれば世界三大宗教は毎日祈りを捧げたり念仏を唱えたりして神や己に向き合っているので、やっていることはまあまあ同じである。そう考えると生と死について考えない現代日本の方がマイナーなのかもしれないが、私は現代の日本を生きる日本人なのでそれは言わない。

さて、自分はこんな死生観なので、前述の知り合いについても、「死にとらわれているということは裏を返せば生にもとらわれているのだろうな」と思っている。本当は生きたいんだろう。その人の苦しみが取り除かれ何か目標が出来れば、死への思いは生への思いに転換する可能性があると確信をしている。だからこの知人については、是非小さくても何か目標が出来れば良いと切に願っている。ただ、それでも本当に苦しみが取り除かれず希望も持てない場合があることもわかる。そうした場合、私は安楽死や尊厳死、自死についても選択肢の一つとしてあるのではないかと思う。身体面であれ精神面であれ、どんなに時間が経っても何があってもその苦しみが取り除けず辛い場合に限り、己で選んだ死は尊重されてもいいのではないかと思う。

だから知人が考えに考えた挙げ句こうした選択をした場合、それは尊ぶべきなのだが、そうした選択をせざるを得ない程苦しみを取り除くすべがなく、希望も見いだせない社会なのだとしたら、そうした社会や医療のシステムは改善しなければいけないと思う。こうした改善をせずに安易に安楽死や尊厳死、自死を推奨する世の中であってはほしくない。日々死ぬことを考えていた私は、げにそう思うのだ。


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