黒猫の紗夜(さよ)

あたたかいベッド。
毎日出てくるごはん。
優しく撫でてくれる、大好きな手。

以前は当たり前に無かったものが、今では
当たり前に日常に存在する。

知らないうちに子猫が増えたし、
ずっと一緒にいたはずの猫はいつの間にか
いなくなった。

あの日、冷たくなる白猫に精一杯声を
掛け続けた。
耳元で叫んでも、いつもなら大声で帰ってくる
返事がない。
分かってはいた。
外で暮らしていた時にも、何度も経験した、
別れだ。
この声にこたえることができないなら、彼女とは
もう二度と会うことはできない。

そんな事…許さない。
私たちを飼ってくれている人を、
子猫たちを、誰が守るのよ。
身体が大きくて頭のいいあなたの代わりなんて
どこにもいやしないのよ。
さっさと起きて、いつもみたいに大きな声で
返事しなさいよ。

声が枯れるくらい叫んでも、もう白猫は
目を開けることはなかった。
私たちを飼ってくれている人たちは、しばらくの
間泣き続けていた。

野良猫の時、別れは当たり前だったのに。
悲しみにくれる彼女たちを見て、当たり前では
ないことに気付いた。
別れは辛いものなんだ。

当たり前に目の前にいた、目立つ白い猫。
大きな声で、喋るのが大好きだった白い彼女。
子猫たちを守ってくれていた大きな存在は、
もうどこにもいない。
私が守らなければ。
子猫たちのことも、私たちを飼ってくれている
人たちのことも。

白猫との別れのあと、人間たちは前よりも
過保護になった。
もう別れを経験したくないんだろう。
私だって同じだ。
野良猫の生活に戻るのは嫌。
これ以上、当たり前に存在するものが
なくなるのは嫌。

ある時、夢を見た。
私が、人間の姿になる夢を。
耳と尻尾はいつもと同じ場所についているけど、
私は2本の足で立っていた。
両手も、いつも私を撫でてくれるあの人たちと
同じもの。
すぐにこれは夢だとわかった。
だって、私の両手は黒い毛だもの。
この両手は、人間と同じ肌の色。

夢の中の何も無い空間を歩いていくと、
女の子が泣いていた。
身体こそ小さいけれど、真っ白な髪の毛は
見覚えがあった。
「…ねぇ」
声を掛けると、女の子は私を見た。
その両目は、もう二度と会えないと思っていた
あの白猫のもの。
右目が青で、左目が黄色のオッドアイ。
あの目を見間違えるはずが無い。
「どうして泣いてるの?」
そう聞くと、女の子は
「ひとりが怖い」と言った。

さっきまでそばにいたはずの人達が、
いなくなってしまったのだという。
自分の名前も分からず、ひとりぼっちで、
不安なのだと。

懐かしい記憶が蘇る。
初めて出会った時と同じ。
白猫は、知らない世界で震えていた。
私と同じ歳なのに、かなり怖がりだった。


私を飼ってくれている人が作ったお話。
外を知らないひとりの女の子と、
外を気ままに旅する白い猫の話。
猫は女の子に魂を分け与えて、違う世界で
転生するのだ。


その女の子の特徴に、この子は似ている。
かつて、私と一緒に暮らしていた白猫と、
その女の子に魂を分け与えた白猫の魂が
結びついたのだろうか。
もし生まれ変わりなのだとしたら、
どんな場所でもいい。
幸せに生きて欲しい。

「…あなたの名前、知ってるわ。」
これだけは、どんな世界からも
なくしてはいけない名前。

「あなたの名前は、雪音(ゆきね)。
雪の音とかいて、雪音よ。」

そこまで言ったところで、私は目が覚めた。
そこには白猫がいない、いつもの家の中。

たとえあれが夢だとしても、
誰にも伝えられないとしても、
彼女はどこかで生きている。
きっと、その名前を大切にして、どこかで
幸せに暮らしている。
そう信じて、今日も変わらない日常を
過ごすのだ。

たまには、夢でもいいから会いに来なさいよ。

たとえあなたがどんな姿になっても、絶対に
見つけてやるから。

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