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日常の言葉に向き合って
「これはできて当たり前」「この料理は普通に美味しい」「常識でしょ」など何気なく過ごしている「日常」の中で話す言葉に、向き合ってみる。
これらは、何かを平らにするための言葉なのかもしれない。
当たり前、普通、常識は、誰もがそう思うこと。
・・・
本当に?
本当に同じなのだろうか。
私が思うに普通ってものは存在しなくて、
当たり前ってものもなくて、
共通に持っている考え方は、皆一緒ではない。
だからいろんな人と話をすることは楽しい。
一緒だけど、一緒じゃない、けれど何処かで一緒だったような感覚。
誰かと誰かの普通は多分一緒じゃない。
同じ当たり前もないはず。
じゃあ、なぜ私たち人間は「共感」するのか。
たぶん、私たちの考えは常に進化していっている。
少し右方向な私の当たり前と、少し左方向なあなたの当たり前。方向は違うけれど、同じスピードで前に進み続けている私たちの思考があるとするならば・・・
地球の形のように、緩く円を描きながら、進み続けていたら、ある時どこかで一度だけ一緒になるのだ。
それが共感なのではないか。
一年前は共感しまくっていた友人がいたけれど、久しぶりに会ってみたら話が合わなくて、とても落ち込んでしまったことがあった。
たぶん話が合わなかったことは正しい。私は左に進んでいる真っ最中で、友人は右に進んでいる真っ最中だったから。
悲しむことはない。
またどこかで共感できるタイミングがやってくる。
また、共感すると私たちは、とても嬉しい。同じことを考えていたの!と喜んだり、運命だ!とも思ってしまうこともある。
さらに、人の悲しみに寄り添っていたら、つい共感してしまい泣いてしまうこともある。しかし、これは「共感」ではなく「同情」だと思う。
あなたがいるから、私が存在している現実。
私の当たり前は右にずれているかもしれないし、あなたの当たり前は少しだけ右にずれているかもしれない。
それで、いいのだ。
前置きが長くなってしまったが・・・そろそろ伝えたいことを綴ろうと思う。
今、キッチンで妹は夜ご飯を作っている。
私は、キッチンの机の上でnoteを書いている。
妹は手の込んだ料理を作ることができる。
私は、簡単な料理しか作れない。
妹は、再来週までの予定を決めたい人。
私は、来週の予定を決めるのが苦手だ。
どこでも寝れることが普通だと考える人がいれば、毎日使う枕がないと眠れない人もいる。
あなたにできることは、私にとってはできないことかもしれない。
私にとって素敵なことは、あなたにとって素敵ではないかもしれない。
私の素敵をあなたに押し付けることはしたくない。
「こうなるべきだ」とも言いたくはない。
けれど、どこかで一度円を描いて巡り合い、何かに「共感」できたら嬉しい。
これから在る私。
それは、「普通」や「当たり前」を見直すきっかけや、誰かと「共感」するための、カケラを色んな人に投入したい。
その上で、もう一度「普通」という言葉について考えてみる。
私たちの考え方。一人一人の貴重な思いは、全て一括りにされてはいけない。
きっとみんな変わっている。
ただ、少し、周りとと変わっていることが怖いのだ。
私もその一人。
こう在るべきだ、と言われ続けた。
けど、今なら変でもいいと思える。
ふふふ。なぜだろう。
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