【音ゲー】叩ける譜面の個人差は才能の差なのか?

 リズムゲームをやっていると、ほとんど実力は変わらないもの同士なのにも関わらず、一方は叩けるがもう一方は叩けないような譜面がある。また、自分よりも総合的に上手な人が出来ない曲を自分は叩けるというようなこともある。つまり、曲に対して得意不得意の個人差が存在する。特に高難易度曲になるとそれは顕著になる。この個人差とは、何に起因するものなのかを考えたい。もっと言うのならば、叩ける譜面は生まれたときから決まっているのか?ということだ。

 そもそも譜面を叩けない、ミスをするということはどういうことなのだろうか。それは、ある特定のフレーズを失敗しているということだ。私たちは練習をするときに、ミスをする箇所を意識しないことはない。つまり全体として一つの譜面と捉えているわけではなく、譜面を小節のような小さいフレーズのまとまりとして解釈している。小節の繋がりが曲となるように、小さなフレーズも一つのまとまりとなり譜面が形成される。私たちが叩けない、ミスをする箇所というのは全体として一つの譜面ではなく、譜面を形成する特定のフレーズなのである。ミスといわずとも、ここは16分乱打、ここは縦連、その次に来るのは8分トリル…と私たちは認識していないだろうか?このことからも、譜面をフレーズのまとまりとして解釈をしていることがわかる。

 譜面の中で使われるフレーズは一定である。例えば、あるリズムゲーム作品にて、8分や16分の乱打が出てこないものはないだろう。それは、譜面が音楽のリズムを元とした二次的なものであり、その元となる音楽のリズムには規則性があるからだ。ここで具体的に列挙はしないが、一つの曲においてフレーズ単位で解釈をしたときに、重複するもの、類似するものを発見できるだろうし、それが作品単位となっても当然見つけることができる。

 つまり、私たちが難しいと感じる曲(譜面)というのは、ミスをする特定フレーズが、作品を通して出現回数が少ないかつこれまで経験したフレーズから応用できないものである。高難易度ほどその個人差が顕著になるのは、譜面製作者が意図した難しさを再現するために、より個性的なフレーズを登場させるからだろう。また、私たちは初めてプレイする曲であったとしても、ミスをせずに曲を終えることがある。それは、その曲の譜面を形成するフレーズがすべて親しみ深いものであるからだ。これまで見たこともなく、経験からも応用できないフレーズが流れてきたらそれは通らないだろう。

 振り返ってみると今では当然叩けるようなフレーズというのは、始めたての頃はおぼつかなかったこともあるだろう。その当然叩ける譜面というのは、広く出現するフレーズだからである。出現度が高ければ練習をする量も自然に増え、滅多に見ない個性的なフレーズと比較し叩けるようになるのは当然である。

 これが問題の回答である。つまり個人差とは、これまで遊んできた作品のフレーズの偏りなのである。縦連が全く出てこない作品をこれまで遊んできたプレイヤーが初見の際にそれを全くもってできないのは当然であるし、縦連が多く出るような作品を遊んできたプレイヤーと比較すればできないのは当然である。よく、リズムゲームを上達するには複数の作品を遊びなさいという話を聞く。それは一つの作品では出てこないフレーズに出会い、練習をすることによってフレーズの偏りを減らすためである。

私たちが感じる才能とは?

 しかし、いくら理屈でそういったとしても才能という疑念は消えない。私は以前「2連タップができないのは才能ですか?」という質問をされたことがある。上記のようなことを簡潔に答えたが、とはいえ、私自身も自分には到底不可能だと思えるようなことを成し遂げている人を見ると、やはり才能の差だと思いたくなるようなことはある。

 そもそも才能という言葉の意味とは何だろうか。なぜ私たちは才能という感想を抱くのだろうか。

 私は何かに対して才能があるという言葉を使うとき、才能を感じるとき、それはそこに至る過程を想像できないときと考える。例えば名画を見たとき、名曲を聴いたとき、高難易度曲の理論値を出している人を見たときに、彼はとてつもない練習をしているという感想は出てこない。一般的には、この人は才能があるという感想を抱くのでないだろうか。しかしこれが、期末試験に向けて放課後遅くまで勉強をし、上位5人に入ったという場合ならどうだろうか。これに対して抱く感想は恐らく「彼は頑張っている」だろう。頑張ったが意味するところは、彼は努力をしているという意味である。では、毎日夜遅くまで遊び、授業中に寝ているような友人が試験で良い結果を出していたとしたら、そこに抱く感想は「彼は地頭が良い」だろう地頭というのはつまり、先天的な能力を有する、才能があるということだ。これは、前者は過程と結果の結びつきを容易に想像できるため努力という言葉に結び付き、後者はその因果関係を容易に想像できないため才能という感想を抱く。また、後者のように何もしていないように見えて成果を出していると不条理を感じないだろうか?つまり、主観的に自分は頑張っていると感じているのにも関わらず、頑張っていないと感じる人が成果を出していると、その不条理からも才能という答えを導き出す。

 話をリズムゲームに戻そう。自分よりも後にリズムゲームを始めた人に、あっという間に追い越されたという経験はだれしもが持っているのではないだろうか。これだけを見るとやはり才能という感想を抱く、後から始めたのにも関わらず自分を追い越す過程を想像できない、もしくはその努力量と成果が見合っていないように感じるからだ。しかし、この前提に「彼は自分よりも毎日三時間多く練習をしている」という条件が加わったらどうだろうか。もしくは、「実は彼がリズムゲームを始めたのはそのタイトルが初めてではなく、10年近くプレイしている」という条件が加わったらどうだろうか。自分よりも多くの練習をしている人に対し、その成果は才能だということはないだろう(それができること自体を才能と呼ぶことはあっても)。しかし、10年と言わずとも、年単位の積み重なりというのは想像が難しい。故に何年もやっているということが判明していたとしても、それが才能によるものであると錯覚することがある。

 SNSやリズムゲームに限らず、人の練習量や経歴の全容を知ることは容易ではない。理論値のリザルトしか発信しなければ一見してそのリザルト以外出していないように錯覚するし、発信している作品が現在遊んでいるものしかないと過去の経歴というのは見えなくなり、現れる個人差が才能の差であると錯覚してしまう。また、このことを理解しているのにもかかわらず、やはり主観として多くの練習をしていると感じていると「私はこんなに練習しているのに!」という感情からも錯覚を起こす。ふたを開ければそもそもの前提条件である客観的な練習量、積み重ねが違っていたりするのだ。もしくはただ単にできないのは練習量の差と考えるよりも、才能という先天的なものに起因するからだと考えた方が楽だからなのかもしれない。

 私はこの個人差は先天的な能力に起因するものではないと考える。しかし、才能そのものを否定しているわけではない。単にこの状況下で使う才能という言葉は錯誤から生じるものであるということを言っているわけだ。才能は存在するのかもしれない。ただし、それを考えるべきなのは今なのだろうか?私たちが16分乱打を叩けるようになったことと、現在できないフレーズを叩けるようにするということはただの程度の差でしかない。才能という先天的なものを考えるのは、その錯誤を解消し、まず比較する対象と同じ練習量をこなしてから検討するのでも遅くはないのだろうか。限界を感じた時に改めて自分のフレーズごとの練習量を見直すと、やるべきことが見えてくるのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?