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3.人生が大きく変わった”高校二年生”(後編)

早稲田実業学校高等部に入学すると決めたとき、その先の人生で
まさか自分が、17歳でU20日本代表になるなんて思ってもいませんでした。
まさか自分が、高2で早実を離れるなんて思ってもいませんでした。
まさか自分が、チェコで得点王になるとは思ってもいませんでした。
まさか自分が、20歳でフル日本代表に入れるとは思ってもいませんでした。
まさか自分が、将来アメリカの大学に通うとは思ってもいませんでした。

そんなお話です。

皆さんこんにちは。三浦優希です。
前回の投稿では、早実に入学した経緯や人生を大きく変えることとなった試合について語らせていただきましたが、今回は、「そんな僕がその数か月後に早実を離れることになった理由」についてお話させていただこうかと思います。当時の”リアル”を届けるため、細かい内容となっており、長文です。よろしくお願いします。

*こちらは前回の投稿の続きの話となっていますので、まだ読まれていない方は2.人生が大きく変わった”高校二年生”(前編)をお読みいただくと話が分かりやすいかと思います。


始まり
それは、高校一年生の時に言われた、母からのある一言がきっかけでした。「早実にはこんなプログラムがあるみたいだよ。」そう言って紹介されたのが寺岡静治留学制度というものでした。こちらは、早実にあった留学制度の一つで「審査に合格すれば、早実から費用を出してもらえて、夏休みを利用して自分の行きたい国に2~3週間単身留学できる」というものでした。元々こんなものがあるとは知らなかった私は、「自分の好きな国に行けて、ホッケーもできて、しかもそのお金も出してもらえるの!?早実すごい!」とこの留学制度にとっても興味がわき、在学中どこかのタイミングで絶対にこれを利用して海外に行きたいと思っていました。
その後家族とも相談し、高校2年生の夏休みに短期留学をするという目標を定めました。理由としては、高校一年生の時は入学したばかりで勉強やホッケーへの対応が忙しく、留学申請準備への余裕が確保できなかったこと、また高校三年生になるまでなんて待ちきれないし、大学進学に向けてほかにやることも出てくるだろうということで、2年目の夏に標準を定めました。

結構いろんな方から、よく「留学しようと思ったね」といわれることがあるのですが、それは両親の影響がかなり大きいと思います。小さい頃から、世界を相手に戦っていた父、そしてそれをずっと支えていた母の話を聞きながら育ちました。今思うと、普段の会話に父が体験してきた外国での話が出てくることが多くありました。どれだけ世界を見ることが楽しいか、どれだけ日本の外には自分の知らない景色が多く広がっているかということを、自然と教えてくれていたのだと思います。
また、小学生の時にアメリカ・カナダ・チェコといった国に行かせてくれた経験も、海外に目を向けるきっかけになったと思います。
グローバルな視点というものを常に意識させてくれて、「自分はいつかは海外にでるものなんだ」と当たり前のように思っていました。本当に恵まれた環境の中で育てられたと感じています。
とはいっても、それがいつになるかなんてのは全く決まっておらず、高校に入ったころは、「大学生とか社会人になってから海外に出ることになるのかなあ」なんて考えていました。

話を戻しますが、そんな中で見つけた留学制度。これを見たときには、自分が行きたい国はもうすでに決まっていました。それは、チェコ共和国です。
読者の皆さんのほとんどはきっと、「なんでチェコ?」と思われたでしょう。私のキャリアを紹介すると必ずと言っていいほど聞かれてきたこの質問ですが(笑)、今回この場でその理由を答えさせていただきたいと思います。

私がチェコにどうしても留学したかった理由、それは小学4年生の時に実際にチェコを訪れたときにこの目で見た「チェコのアイスホッケー」に強烈なインパクトを与えられたからです。チェコは世界的に見てもアイスホッケーの強豪国で、アイスホッケーは国技となっています。国内リーグはとてもレベルが高く、ファンも熱狂的で、リンクは大いに盛り上がります。そんな試合を自分が観戦したときに、その場の雰囲気にとても心が躍ったのを覚えています。ただ、それだけではありません。小学四年生の私にとって一番の衝撃だったのは、チェコという国のホッケースタイルでした。
どんなスポーツにもその国の特徴というものが少なからず現れるかと思いますが、アイスホッケーもそれに似たところがあります。簡単に大きく分けると、北米のアイスホッケースタイルと、ヨーロッパのアイスホッケースタイルです。わからない方のために簡単に違いを説明すると、

・北米はとにかく前に前にパックを進める。チャンスがあればどこからでもどんどんシュートを打つ。コンタクトプレーも多く、かなり激しいホッケー。
・ヨーロッパは、パスをつなげていって相手を崩していく感じ。前に進めないときはもう一度後ろから立て直す。いわゆるパスホッケー。

ざっくりまとめるとこんな感じでしょうか。もちろん両者が絶対にこのスタイルというわけではありませんが、簡単に表すとこうなります。
小学4年生の頃の私は、海外といえばNHL(北米にまたがる世界最高峰リーグ)の試合しか見たことありませんでした。そんな中で目にしたチェコのホッケー。選手が創造的に動きながら華麗にパスをつなぎ、ゴールへと迫っていくその美しい姿に、小学生ながらも感銘を受け、試合が終わるころには「いつかこの国でホッケー選手になりたい!」という憧れを抱いていました。なぜ当時の私が、チェコのホッケーを見て「美しい」と感じたのかはいまだにわかりません。ただ、それは、一人の少年が夢を持つには十分な理由でした。

チェコでアイスホッケーができる。
あの頃の夢をかなえられるチャンスになるかもしれない。

そんな思いを胸に、申請手続きを始めました。そして、いくつかの審査を経たのち無事合格をもらい、夏休み期間の8月に2週間(前回の投稿で話した全国選抜大会の後)チェコに行くことが、高校2年生の前期には正式に決定していました。

チェコに行くことが決まると、小学生でチェコに行ったときにお世話になった、桐渕さんという方に再度連絡し、チーム探しを手伝っていただきました。桐渕さんはアイスホッケーをするためにご家族でチェコに移住された方で、現在は日本人向けの民宿をプラハで営まれています。チェコにいる間すべてのお世話をしてくれた方で、私のチェコでの生活を語るうえで絶対に欠かせない方です。私のとっては第二の家族です。ここでは書き表せないくらい本当に多くの助けをいただいたので、それは別の機会に詳しく書かせていただきたいと思います。
また、チェコへ行く際に相談をさせていただいた方がもう一人います。それは坂田淳二さんという方です。この方はアイスホッケー日本代表として活躍をされ、アジア人として初めてチェコ(というかヨーロッパ)のアイスホッケートップリーグでプロ選手になった方です。父と親交があり、小さい頃からかわいがってもらったりホッケーを教えてもらったりと、大変お世話になっていました。私が大きな影響を受けた方のひとりです。

桐渕さんの紹介と坂田さんのアドバイスを基に、留学中に練習に参加させてもらえるチームが決まりました。それが、クラドノというチームでした。

クラドノは、首都プラハのお隣の町にあるチームで、チェコを代表する古豪です。過去に何人も代表選手やNHL選手を輩出しており、アイスホッケーが好きな方ならだれもが知っているレジェンド、ヤーガー選手の出身チーム(現オーナー)でもあります。

photo: alamy stock photo

この組織の、ジュニア(Jリーグなどで言う下部組織。ユース)に当たるU20クラドノというチームの練習に参加できることになりました。U20クラドノはチェコジュニアトップリーグに参戦しており、こちらもまた強豪チームです。プロ予備軍のようなもので、チェコ全土の子どもたちが憧れる、レベルの高いリーグです。参加したいからと言って簡単に入れるチームではありません。私は当時17歳になったばかりでしたので、チームのみんなは年上に当たります。そんなチームの練習に、大変ありがたいことに桐渕さんや坂田さんのおかげで2週間参加できること運びとなりました。

自分の実力がどれだけ世界に通用するかが体験できるこれまでにない機会です。不安もありましたが、それ以上にワクワクしていました。そして迎えた8月の出発日。いろんな期待を胸に、私はチェコへと渡りました。

今でもはっきりと覚えているのが、練習初日のこと。クラドノに着き、リンクへと入りU20チームのルームに進みます。監督に挨拶をした後、選手たちがいる控室へと案内されたわけですが、そこで浴びる周りの選手たちからの視線。一瞬静まりかえるロッカールーム。その後全く分からないチェコ語でこっちを見ながらなにやら会話を始める彼ら。「気まずい・・」と思いながらも荷物を置いて練習の準備を始めました。少し落ち着いて周りを見てみると、衝撃でした。「ほんとに君20歳以下か!?」と思う選手がたくさんでした。背も高く、体つきもしっかりとしている彼らを見て、ほんとにこの選手たちに交じってホッケーをこの後するのかと思うと少し不安になりました。それでも、「これはわかっていたことだし、自らここに来ることを決めたんだろ」と自分に言い聞かせました。練習が始まるまでの間、控室にいる選手と片言の英語でコミュニケーションをとり、自分が日本から来たことや、17歳だということを伝えました。中にはフレンドリーに接してくれる選手もいましたが、やはり全体的には「なめられている、馬鹿にされている」ような雰囲気を感じていました。日本にホッケーがあること自体知らない選手もいるわけですから、当然のことですね。ただ、そこで私は怖気づいてしまったわけではなく、むしろ「ぎゃふんといわせてやる」と一人心の中で燃えていました。戦う前に一番最初に越えなければいけない壁は、ここで乗り越えられたような気がしました

そして、いざ練習が始まってすぐにわかったことがありました。それは「なんだ、俺全然やれるじゃん」という事でした。確かにみんな体は大きいしシュートとかはめちゃくちゃ早いけど、スケーティングやパススキルに関しては絶対に負けていないと思いました。練習の中でゴールを決めたり、いいアシストを演出したりすると、少しずつチームメイトの私を見る目が変わっていきました。手に取るようにみんなが私に対して心を開いてきていることがわかります。そして、練習が終わるころにはいろんな選手が私にやさしく接してくれるようになっていました。一発目の練習で、周りの選手に自分を認めさせることができたんです。これはかなり大きかったですね。海外でプレイする以上、第一印象というものがどれだけ重要かを認識させられました。「上手いかどうか、やれるかどうか」の世界です。

それから、次の日もその次の日も練習に通い、チームメイトに連れられてごはんも一緒に食べに行ったりしていく中で、どんどんみんなとの仲が深まっていきました。滞在期間中には練習試合にも出させてもらうことができました。試合では、練習とはまた違った感覚を得ることができました。今まで日本でやってきたときに比べて、相手のプレッシャーも早いし、パワーも全然違う。それでも、そこでも同じように思ったことは「やれる」という感覚でした。数試合プレイして、ゴールやアシストもマークすることができました。ただ何よりも、今までしてきたホッケーの中でダントツに楽しい瞬間でした。自分が欲しいタイミングでパスが出てきたり、そこにいてほしいというところに味方がいてくれたり、とにかく自分が憧れていたホッケーを今できているということを感じられて、とってもうれかったのを覚えています。

そんなこんなであっという間に時は過ぎ、いよいよ最終日の練習がやってきました。その日の練習の後に監督に「話がある。」と呼び出されました。「何を言われるんだろう。」と思っていましたが、そのあとに監督から言われた言葉で私は飛び上がりそうになりました。

「このチームに入らないか?ぜひうちに残ってプレイしてほしい」

といった内容でした。まさか、自分がこんなオファーをもらえるなんて思っていなかったので、本当に驚きました。と同時に、心の奥から何か熱いものが湧いてくるような感覚がありました。この時監督に何と返事したかは実はあまり覚えていません。ただ、私の心の中で答えはすでに出ていました。

その後すぐに母親に電話をしました。チームに誘われたこと。そして自分がここでプレイしたいという意思を持っていることを、自分の言葉で伝えました。「今このチャンスを逃したら、きっと一生後悔する。今しかない。」といったような言葉を口にしたのを覚えています。

その数日後に日本に帰国してからは、家族や早実の先生に事情を説明する日々が続きました。スポーツ推薦で入学した私が、途中で学校を抜けるということは本来であれば認められるはずがありません。早実アイスホッケー部のために入学した私が、その部を抜けるなんてことはあってはいけないことです。それでも、学校の先生方、ホッケー部の顧問の先生、そして大切なチームメイトたちは、私の思いを理解してくれて快く送り出してくれました。正直言って、私がチームを抜けることで、どれだけチームに迷惑をかけるかは分かっていました。それでもみんなは、私のわがままな夢を、応援してくれました。

そして、ビザ申請や学校の手続きなどを進めて、同年2013年11月より、チェコへアイスホッケー本格留学をスタートさせました。この時点では、早実は休学という形にしていましたが、2014年3月をもって自主退学をさせていただきました。「高校はしっかりと卒業しなさい」という母の意見や、早実の先生が紹介してくれたこともあり、通信制高校「NHK学園高等学校」に転入し、チェコにいながら日本の高校教育を受けていました。
こうして私の海外挑戦がスタートしました。

終わりに
大変長くなってしまいましたが、以上が私が早実を離れるまでの経緯です。
本当はもっと短くまとめることはできたのですが、最初にも書いた通り、私が海外へ出ることになったきっかけを少しでも”リアル”に皆様に届けたくて細かく書かせていただきました。
海外に出るにあたって、本当に多くの方が助けてくれました。皆さんの理解と支えがあり、今の自分があります。早実に行っていなければ、間違いなく全く別の人生を歩んでいました。本当に、あの時に私を海外へ送り出してくれた方たちに感謝しています。すべてはここから始まりました。

この文章を書いているとき、当時の様々な感情がよみがえってきました。
早実を離れるという選択は、人生の中で最も大きい決断でした。あの時、本当に逃げなくてよかった。高校を自分が辞めるなんて思いもしなかった。それでも、自分を信じて険しい道を選んだからこそ、その時想像もしなかった景色を多く見ることができました。不安がありながらも勇気を出して挑戦をしたことで、自分の人生を大きく変えることができました。これからも、挑戦を続ける姿勢は大切にしていきたいと思います。

最後になりましたが、長い長い文章を、最後までお読みくださり本当にありがとうございました。皆様のおかげで、自分を見つめなおすいい機会となりました。もしよろしければ、コメントやDMなどで、感想や意見などをお聞かせいただけると幸いです。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

ありがとうございました。

三浦優希










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