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やると決めたらやる。それしかないから。②

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学童での生活が楽しく、特に夏休みは一日居れるのでパラダイスだった。

学校のプールで泳いで、かき氷作って食べて。

みんなで壁新聞を作ったり、影絵制作したり。


勿論、夏休みが終わってからも楽しかったけど、やっぱり夏が最高だった。


三年生の終わりまで、学童に居る事ができた。

学童のY先生は、親の介護の都合で、私が卒所する時に退職の運びとなった。

この時の楽しく、人としての私を甦らせてくれたY先生との思い出を、私は後に思い出す事となる。


三年生の終わり頃にはクラスの中での蟠りも、少し改善されていた。父が真面目に家に帰ってくるようになり、我が家のライフラインが復旧し、人として最低限の生活は確保されお風呂も入れるし、服も着替えが用意できるようになった事もあっただろう。


私はというと、とにかく1分1秒でも、母親から逃れたかった。目が合えば罵られ殴られるからだ。学童が休みで、昼間に母が家にいる日は、父と朝にその日の現場の最寄駅まで一緒に行き、あとはいわゆる山手線のような某環状型路線を父の業務終了時間まで何十周もぐるぐるぐるぐる回って乗っていた。全く飽きなかった。人間ウォッチングが楽しくて堪らなかった。今だと乗車時刻も切符でわかるようになっていて、とても無理なんだろうと思うが、切符を駅員が切符切りで気怠そうに切っていた頃の話である。

『もういっその事、お母さんなんて居なくなればいいのにな』と、近くの神社でそんな事を願ってみたりもしていた。


…ある日、家に帰ると家の中ががらんとしていた。

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