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玄白のこと


1867年、江戸幕府末年の春、政治家で洋学者の神田孝平が、湯島聖堂の露天で偶然にもある本を見つけた。表紙には「蘭学事始」とあり、杉田玄白の署名があった。これは世紀の大発見とばかりに神田は盟友の福沢諭吉に駆け寄り、こぞって写本された。これが現在に残れる玄白著「蘭学事始」である。

いまでこそ誰しもその肖像とともに日本史で知る杉田玄白、小浜藩藩医を勤めた外科医だが、しかしここには未知の世界だった蘭学への刻苦奮闘の道なき道が記されている。漢学漢籍の素養があった玄白であったが、記述はきわめて平明な和文、一切飾らず、また苦心の痴愚心情をひとつもこぼすことなく、淡々と蘭学学習のことを語る。情熱を取り囲む冷静さ、これ実に科学者の態度である。

あるとき、玄白は蘭人(オランダ人)から一冊の解剖書を購う。これによると、それまでの漢方医の書に載せてある内臓図とは、位置も形状もまったく異なっていた。いったいどちらが正しいのか皆目分からなくなってしまったという。

ちょうどこの頃、南千住小塚原の刑場で、斬刑に処された罪人の腹を解剖して見せる「腑分ふわけ」が行われていた。そこで玄白は解剖書の真偽を確かめるため、この好機に同じく医者の前野良沢らを誘ってこれを見にいった。よく検分にするに、オランダの解剖学の書がまったくぴったりに実物と一致する。この件は本書の出色でもあるが、ここに正確無比な蘭学の大きな価値を見いだし、非常な発奮をもって、以後その研究に邁進することになる。このとき、玄白三十九歳であった。

早速翌日からこの解剖書の翻訳に取り掛かるが、しかし一語たりとも理解することができない。「まことに櫓舵なき船の大海に来りしが如く、茫洋として寄るべきなく、ただあきれて居たるまでなり」と歎ずるほどであった。それでも玄白は一意専心決してあきらめることなく、当初は一語にさえ日の暮れるまで費やし、それでも理解はおぼつかなく、そうこうして一年の苦学ののち、ようやく一日一行理解できるようになる。だんだん楽しくなり、根のほうが次第に甘くなることから、さとうきびをかむ」と譬え、このときの玄白の素直な喜びようが手に取るように伝わってくる。そして四年間の苦難咆哮によって、ついに全部の翻訳を完成した。これが名高きかの「解体新書」である。

医者とはいえ、蘭学にかんしてはひとりの好事家に過ぎなかった玄白が、日本史に残るこの偉業をなすに至る苦心惨憺の軌跡「蘭学事始」、今読むに大きな感動を運んでくれる。これを記したとき、なんと玄白は八十三歳、この二年後、自分ではままならなくなった校正を弟子の大槻玄沢に託し、八十五歳で世を去った。

こうした先人らの弛まぬ努力と苦心があって今があると思うと、勉強できる環境や時間がありながら怠け呆けては、すぐに挫折する自分は、まったくもって下がった頭が上がらない。それでもこの「蘭学事始」は、ときと場所を越えて、わたしたちの背中を力強く押してくれる。

一滴の油これを広き池水の内に点ずれば散つて満池まんちに及ぶとや、この道開けなば千百年の後々の医家真術を得て、生民救済の洪益こうえきあるべし




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