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魂ゆすぶる帝王カラヤン

ここしばらく帝王ことカラヤンとフルトヴェングラーを聴き比べていた。「音楽は音による最高の知恵、魂の形而上学啓示である」とヴェートーベンは言い残し、自らの全魂を注いだという交響曲第3と第5を交互に聴いた。

フルトヴェングラーは、感覚的な響きを目指してなんというか力学的な操作をしているように思え、それがいわば音楽の呼吸となって有機的なものとして運動しているように感じ、聴かせるべき楽器をしっかりと聴かせているかにみえる。決して技術に終始しなかったという大指揮者だが、その有酸素的音の運動がヴェートーベンにぴったりだと思った。

一方カラヤンは、やはり響きがどこまでも自然で、力みがなく、それでいて余計な感情を回避しているように感じる。多くの識者は、カラヤンをして「音響の絶対的洗練」なんて言うが、この洗練はかえってあっさりした自然さにあるのではないだろうか。休符を除けば、すべてが一体となって淀みなく流れていく。フルトヴェングラーのヴェートーベンとはやはり違っている。

そして最後にカラヤンの晩年、81年の東京公演の第5を聴いた。第3楽章から勝利のフィナーレに突入していくあたりで、なぜか人知れずドキドキして、なにがなにやら思わず感動してしまった。聴き慣れた第5だったが、これまでこんな経験はなかった。帝王指揮する最後の第5は、どれよりも魂をゆすぶるものだった。そのわけは自分でもよく分からない。もうしばらくフルトヴェングラーは聴けないだろう。

最晩年、カラヤンは身体がほぼ不自由になり指揮台まで歩くのさえ困難な状態だったという。それでも腕を振り続け、そうして私たちの魂をも大きく揺り動かす。感動とは、こうして「心が動くこと」、ヴェートーベンが理想とした音楽の魂の啓示をここに少し見たような思いがして、その力で音楽音痴の自分も前に進めそうな気がした。


I always look ahead!
I never look backwards!

--- H. von Karajan (1908-1989)

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