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来世で忠度公に伝えたいこと

一の谷で壮絶な最期を遂げた薩摩守忠度さつまのかみただのり。鎧の前後を前肩で結ぶ高紐たかひもとも、背に負う矢の容器であるえびらとも、そこにはひとつの歌のふみが結ばれていた。

行き暮れて木の下かげを宿とせば
   花やこよひのあるじならまし

戦場には不要であるはずの歌は、それでも歌人でありたいという忠度の願いだった。これを知り、敵味方なくみな涙したと伝わる。

武人として源氏方との合戦に明け暮れ、ついには都落ちを余儀なくされた忠度は、死を覚悟したなかに、自らの歌人としての心を呼び覚ます。西への敗走の途中、「いづくよりや帰らりたりけん」、都へ引き返し、かつての師だった藤原俊成を訪ねる。後白河法皇より勅撰集編纂の命を受けていた俊成に、せめて一首でもと懇願するためである。

一門ともども滅亡の死の予感のなか、歌詠みとしてありたいと願ったこのときの忠度の心はどんなにか苦しかったことだろう。たとえ勅撰集に入集したとしても「世静まり候ひなば」、つまり平家が滅んだあとのこと、勅撰歌人となるためには滅亡と引き換えだった。「いづくよりや帰らりたりけん」とは、場所のことではなく他ならぬ忠度の苦悩葛藤する心情のことだろう。忠度の悲しみはその討死にあるのではなく、このときの心の揺らめきにあり、武と文との深淵に、そして死と芸術とのはざまに揺らぐ「いづくより」は、あまりにやりきれない。

俊成に託した一巻の巻物には勅撰に相応しい秀歌がいくつもあったが、勅勘ちょっかんたる朝敵ちょうてきだったため、名を明らかにすることはできない。しかしのちにこの勅撰集「千載集せんざいしゅう」を完成させた俊成は、読み人知らずとして忠度の和歌をひとつだけ載せている。

さざ浪や志賀の都は荒れにしを
      昔ながらの山桜かな

来世でもし忠度公にお目にかかれるならば、私は「いづくよりの無名の人」となってこのことを伝えたい。以降の勅撰集には「薩摩守忠度」として十首ほど入集し、歌集「平忠度朝臣あそん集」が編まれ、後世の人々の多くは、悲しみに散ったあなた様が優れた歌人であることを知り、俊成卿に託した願いは叶えられました、と。


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