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たまきはる、いのちの儚さを追慕して

建春門院、八条院、そして春華門院と三人の女院に仕えた建春門院中納言(健御前)の日記「たまきはる」。作者が63歳のころに書いた回想録である。最後に仕えた春華門院が亡くなったときは50歳、それから13年後のものだ。作者は「千載和歌集」を編纂した大歌人俊成の娘であり、日本文学史に大きな足跡を残したあの藤原定家の姉である。でも女房としての地位は決して高くなかった。

「たまきはる」とは「いのち」の枕詞とのことだが、日記は次の歌で始まる。

たまきはる命をあだに聞きしかど君恋ひわぶる年は経にけり
(いのちは儚いものだと聞いておりますが、亡きあなたさまを慕っては悲しい年月が経ってしまったものです)

この「たまきはる」から本書はこう呼ばれている。この「君」は17歳という若さで世を去った春華門院のこと。一方では、かつての華美優艶なる世界にいた建春門院のことだという人もいるが、しかし春華門院の死は作者に大きな衝撃をもたらしたことを考えれば、その追慕は春華門院に向けられており、それはまた作者自身の人生の内省ともいえるものである。

それまで地位の低かった作者は春華門院が乳児のときから亡くなるまでおよそ16年間乳母を務めている。この出仕を喜び、大変なやりがいを感じている。それは相手が幼い皇女という高貴な身分だからというだけではない。そこには独身を貫いた作者の母親としての母性と愛が目覚めたからである。

その養育に戸惑い、不安になりながら奔走する姿がいくつも綴られている。「身のゆくへもしらず」「しばしうちまどろむ事もなく」「かたときもおぼつかなく」など、養育に必死な様子がみてとれる。誰しも最初の子育ては未経験なものだが、作者もまたその慌ただしい経験を述べている。

皇女が病床に伏したとき、諸事情から作者は側につくことができなかった。ようやく会えたとき、病状は回復したかにみえたがしかしその直後、一気に悪化しそのまま亡くなったという。この衝撃と悲しみを作者はひとこと「かきくらし、目も見えず」と記す。崩御から13年後の筆である。

その最後の必死の看病のあいだのこんな一文がある。「その夜より御足のあさましく冷えておはしますに、ものもおぼえず」。「その夜」と限定詞であるからには亡くなった日だろう、その夜にとても足が冷たくなられ、どうしていいかわからなかったという。ここで作者は明らかに皇女の足に触れている。ここに母から子への母性愛ともいうべき、いやそれを超えた無償の渾身的な愛がありはしないだろうか。乳母としての出仕に意気込み、戸惑いながらも16年間仕えてきた作者の愛と、そしてその無念が、冷たい足に触れることで表現される。これは胸に迫るものがある。


たまきはる命をあだに聞きしかど君恋ひわぶる年は経にけり


これは短く儚い生涯だった春華門院への、死後13年後の悲しみに包まれた追慕惜別の表白だったのである。

女院の墓はのちに承久の乱に敗れ隠岐に流された父、後鳥羽院の離宮のそばにたてられたと今日に伝わっている。

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