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紫苑のととのいに見たもの


都内のある場所を訪れる。残暑が名残惜しいまま空に居残っては暑い日だったが、からっとした快晴でそよぐ風が袖を通り、しばし涼がとどまる。

とくにこれといった碑もなく、そぞろに歩いては、大きなある公園の門をくぐる。そこにはこれから咲こうとしていた紫苑の園が、レンガ花壇に囲われていた。薄紫に色づいた同心円のいじらしい花びらは大変美しく、空をも地をもうっすらと染め上げようとしている。

日本文学史上美文名筆のひとつとされる石川淳の「紫苑物語しおんものがたり」を思い出し、しばしその花を前に佇む。歌の道をなげうち手に弓をもった若き国守が、自らの生を求め、最終的には敵をおのれに見立てて射り、その死でもって生を捉える弓道ならず求道深き物語。作中、焼野原に咲いたあまたの紫苑はその別名「忘れな草」として、退嬰絢爛なイメージを目にうちつけるが、わたしは数年前に旅立ったひとりの友人のことが重ねて思い出された。

ひとつひとつは小さく、その姿はどこか弱々しくもあり、しかし丈高く凛と立つさまは、まさにその人の過日を思い出させた。咲き乱れているようで、自然の古雅な法則に恭しく、ととのいに整っている。多年草ゆえの忘れな草だが、この端然とした紫の姿は一度見たら決して忘れないものだ。

そうした故人の面影うつる紫苑の花壇をしばし見守り、ふっと踵を返した。生あるものが死を弔い、そのタマシヒを鎮めるのが習わしだが、夏が終わろうとするこの日、私の背中には「紫苑物語」の主人公宗頼と知人とが、そろって紫苑の弓矢を射かけているように感じ、恐しくも振り返ることができなかった。

可憐な紫苑のととのいに見たもの、それは生と死がせめぎ合う、薄紫の小さき結界であった。


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