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FOLK Koshigoeが出来るまで…

私が育った家は、築100年を迎えようとしている古民家だ。
海水浴場から徒歩5分程の、湘南というのはちょっと気恥ずかしいような、腰越というしらすの有名な漁師町。
江ノ電が唯一道路を走るノスタルジックな雰囲気を残した町にその家はある。

その家は、貿易会社の社長さんが自宅と避暑の為の離れを建てたようで、平家が2軒並び、渡り廊下で繋がっていたらしい。
そのご主人が亡くなり売りに出されていたのを、
曽祖母が選び祖母の家族が暮らし始めた。

喘息があった1番下の弟には、海の風は良いからと海の近くで、学校に通いやすい場所。と曽祖母が海近い場所を見てまわって決めた。と叔母に聞いた。

母屋は老朽化でわりとすぐに壊し、祖母の家を建てる為に いま残っている古民家を敷地内で移動させたらしく、電車のレールのようなものを使って引っ張って動かした。と聞いたが、確かではない。

客間として使われていた家は22.5畳の二間しかなくぐるりと周りは廊下で囲まれている。私が幼かった当時は小屋のような小さい台所とお風呂がついていて、お風呂は木製の物がコンクリートの上に乗っかっていたような記憶がある。

縁側の3辺は木製の建具で全てに結霜ガラスが入っている。ガラスをはめてある四隅に飾りこれも全部手仕事だ。
二間を仕切る襖は今は取り外して使用しているが、上には欄間があり 二間を囲む16枚の障子には雪見障子、書院と床の間もある。
平家なのだが、天井は高く 屋根は銅板で葺いてあり四方に鬼がついていた。

いま、見るとかなり材に贅をつくし一つ一つがかなり凝っている。
当時、その家が高かったのかどうかも祖母に聞いた事がなかったので、よくわからない。

父や叔母達がまだ学生の頃は、人に貸す事もあったようで、登山家でスキーヤーの三浦雄一郎さんが暮らしていた期間があり、当時スキーのトレーニングにトランポリンを庭に持ち込んだらしく、
今でも近所の高齢者の方に話を聴くと、あのトランポリンで遊んだわ。という話に必ずなる。

父が学生の頃は、溜まり場となっていたようで、和室にヨットを入れて直したなど、なんだかんだと人の出入りが多い家だったようだ。

小さい頃はこの家が嫌いで、人に話すのは恥ずかしかった。小学生のうちは汲み取り式の和式のトイレで、紫色のバキュームカーが停まっていると本当に恥ずかしくてたまらなかった。
二間しかないので、自分の部屋などなく 廊下に勉強机をおいてなんとか仕切り自分のスペースを確保した。

子供の頃、すごく寒いとかすごく暑い。と思った記憶がないので、快適だったのだと思う。
夏の夜は虫の音が聞こえ、江ノ電の音と波の音が聞こえた。たまにふわりと入る風がとても気持ちが良かった。

書き出すとキリが無い。
父や叔母が幼い頃の聞いた話
父と母、私と妹が暮らした頃の話
当時の腰越の様子や空気感

そんな時間の流れの中多くの家族や人達を見守りあの家は姿を変えず建ってきたのだ。
100年も。

そんな家で私も妹も育った。

5年ほど前のある日、父が家を壊し、土地を売ろうと思う。と言った。

いつかはその時がくるだろう。と思っていたが、
はい。わかりました。とすぐに言えなかった…
散々悩んだが、選択肢などあるわけがない。
仕方がない。と片付けを始めた。 

まだ未就学児をかかえ、フリーの仕事をしながら
家を片付けするのは本当に大変だった。
母が古道具や作家さんの作品が好きだった事もあり、素敵な物がたくさんあった。 
まずは、業者さんに買取をお願いし、1日見てもらったら トラック1台 山盛りに積んで10,000円だった。

お金が安いとかなんとかではなく、悲しかった。

変わっていく事は仕方がない事で、悪いことばかりではないけれどこのままでは悲しすぎる。
この家もあっという間に壊して更地になってしまい何があったかわからなくなるだろう。

どうにか古民家を残して場所を維持したい。
せめて少しでも…
そう思ったのが始まりだった。


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