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食事という、食べものとの極めてプライベートな密会について

このマガジンで書く食コラムは基本的に私と食べものとの極めてプライベートな密会の記録である。

だから、こんな公の場で書いておきながら、人に見られるのはかなり恥ずかしいし、できれば読まないでもらいたいと思う、“矛盾”を孕んでいる。

親や彼との会話のような、とても他所様にお見せできるものではないこっぱずかしい記録。


平野紗季子さんという方が著書の中で

人と一緒に食べれば何でも美味しいという人がいるけれど、あれは偽善だ。だって人と食べてもまずいものはまずいし、一人で食べたって美味しいときもあるでしょう。

的なことを言ってたんだけれど(記憶をもとに書いているので若干の違いがあるかもしれないことを許してほしい)、私も昔は偽善者だった。

その偽善者が、人と人との関わり合いの道具としての食ではなく、食と人との関わり合いを見つめ直すようになったのは、食と人との関わり合いにとっても正直な夫との出会いからだった。夫は愛する妻の料理でも、妻の機嫌を損なうとしても、決してまずいものを美味しいとは言わない。彼の中には雰囲気美味しい的な感情は存在しない。彼と食との関わり合いの中で感じる結果がすべてだ。

でも、それって意外と潔いのかもしれない。

私は彼との暮らしの中で、いかにそれまでその時間が楽しければ2割り増し的においしく感じる、いわゆる雰囲気美味しい暮らし方をしてきたかということを思い知る。

今ではすっかり食と人との関係性が優先されるようになった私の食卓。人と人との関係性を築くための道具としての食なんて、栄養チャージ以外の何物でもないからだ。

食と人との関係性は人生を豊かにしてくれる。

そんな、ちょっとウェットな私の食との対話をこれからも気まぐれに書いていきたい。



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