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我の弱さ、みたいなもんは、長いこと女性の美徳だった。我が弱い、というのは、客体であるということだ。他者から自分がどう見えるのか、みたいな意識が強い。他者の目線への意識が最も強い。しかし、その他者も架空の存在にすぎず、自分の意識が投影されたものだ。

マゾヒズムのセクシュアリティを描くときにまず最も意識されるのは、この、客体としての意識で、男性の目線で見て、欲情するもの、が、マゾヒズムを形成している女性が最も欲情する形だ。男性の目線が主体。その、客体としての強さ。主体は徹底的に男性にあるんだ。我、という、主体はとても弱い。

西洋の女性は主体としての自分=我がしっかり確立しているので、男性の性器やおしりに欲情しやすいんだ。セクシュアリティに主体がある。日本女性は、むしろ女性の媚態に欲情しやすい。男性の目線が主体だから。マゾヒズムは、意識が客体なのだ。

男性の目線、は、架空。多くの男性ならこう考えるだろう、という、自分の予想に過ぎない。男性にもいろいろいて、女性の媚態には欲情しないタイプの男性もいるだろう、みたいな考えとかは基本無いわけ。いたって大雑把な、男性、というイメージから成っている。

自分が、そういったマジョリティの他者の欲望に満たされている。

これを文化的美徳にするのは女性だけではなく、宗教もだ。宗教も、我の強さは嫌がる。我が薄い、というのは宗教では大変な美徳だ。たしかに、我の薄さでうまくいくことっていうのはとても多いんだけど。商売も、最初はその客体さがあったほうが、無いよりも全然いい。

でも、最終的に、我は強いほうが得をする気がする。

損得の話だけではないが。どうにも、我が弱いと散ってしまうときがあるんだよなあー。まとめあげるひとは、我が強いタイプでなければできないときがある。イニシアティブ、というやつか。まあそれでも壊れるときは壊れるんだけどね。

と、今、仕事をしながら思っている。


なにかを形にしたい、と、「強く欲望する」主体が必要な仕事。


誰かから欲望される欲望ではなくて。

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