見出し画像

太田真紀&山田岳 × Cabinet of Curiosities より曲目紹介ー奇妙な秋ー

(冒頭宣伝あり)今年も始まったばかり、、なんて思っていたら既に6月!
6月と言えば、29日にキャビキュリキュレーション協力公演があります。この記事シリーズでは、公演で演奏される曲目について時間が許す限りまとめていきたいと思います。今回の演目も、日本ではなかなか聞くことができない希少な作品ばかりです。以下公演詳細です↓

太田真紀&山田岳 × Cabinet of Curiosities <A Quiet Space>
2022年6月29日 (水) 19:00~
※開場は、開演の30分前
※上演時間:約2時間


プログラム:
スティーヴン・カズオ・タカスギ《奇妙な秋》
カローラ・バウクホルト《噪音》
ハヤ・チェルノビン《ホウライシダ(II)》
シモン・ステーン=アナーセン《Drownwords》

出演: 太田真紀(ソプラノ)、山田岳(ギター)
アフタートーク出演: Cabinet of Curiosities(森紀明・渡辺裕紀子・小出稚子)
企画・構成: Cabinet of Curiosities(森紀明・渡辺裕紀子・小出稚子)、太田真紀&山田岳 
主催: 太田真紀&山田岳 
助成: 公益財団法人野村財団
舞台監督: 鈴木英生(カノン工房)
制作: 福永綾子(ナヤ・コレクティブ)

チケット:
一般 前売:3,000円 当日:3,500円
学生 前売:2,000円 当日:2,500円
(全席自由・税込)

☆チケット購入はこちらから☆
https://www.confetti-web.com/detail.php?tid=65971&

太田真紀&山田岳 × Cabinet of Curiosities

キャビネット・オブ・キュリオシティ―ズは、作曲家によるキュレーション・リサーチ・コレクティブです。

キュレーションとは何ぞや、という方もいらっしゃるかもしれません。簡単に言うとプログラムを決めることです。

これまでは作曲家による自作品演奏を主眼としたもの、もしくは演奏家自身がプログラミングまで行うことが多かったと思います。しかし、本公演「太田真紀&山田岳 × Cabinet of Curiosities」は、上記のどちらにも当てはまりません。私たち作曲家集団は、時間をかけてリサーチをし、この公演に適したプログラムを選定することに徹しました。そして太田真紀さん、山田岳さんと一緒に共同でプログラムを組み立て、この公演を作り上げるお手伝いをしています。

今回は一つ「パフォーマティブな○○」という新しい音楽の重要なテーマをもとに、世界各国の作品をリストアップし、その傾向を学び、その中から一風変わった作品を陳列しました。この世界のどこかの点と点を結び付けた時に、何が見えてくるのか、ぜひ観客のみなさんと共有したいと思います。

スティーブン・カズオ・タカスギ作曲の「奇妙な秋」

まず先日さっきょく塾でも取り上げた、スティーブン・カズオ・タカスギ作曲による「奇妙な秋」。まさにキャビキュリのテーマ、「一風変わっている」の代名詞のような作品です。

前回の記事では、主に楽譜について触れたので、こちらの記事ではスティーブン・カズオ・タカスギの音楽について、書いていきたいと思います。

スティーブン・カズオ・タカスギは、1960年、ロサンゼルス生まれの作曲家です。今回お聞き頂くハヤ・チェルノヴィンのパートナーであり、現在彼女と共にアメリカ、ハーバード大学で教鞭を執っています。

2000年以前のタカスギの作品は、主にヘッドフォンで聞くタイプの音楽であり、楽器音を使っていても(人間の身体能力を超えていたり、複雑すぎるなどの理由で)、ライブで演奏されることは想定されていませんでした。わたしが最初に聞いたタカスギの作品もサンプラーを多く用いた不思議な電子音響作品であったことを覚えています。

そして、2000年以降に書かれたタカスギの出世作とも言える(恐らく彼の作品の中で一番再演されているのではないかと思われる)「Sideshow (2009-15)」では、それまでとは打って変わって人間の生の身体性や演劇性が全面に出ています。演奏者のステージ上での並び方一つとっても、それが「見せること」を意識した配置であることは明らかです。

生音をパーツとしてある意味身体性を排除することで、「現実にはありえない閉じた空間」を構築してきたタカスギですが、どうして「生の身体」にシフトしたのでしょうか。

今回演奏する「奇妙な秋(Strange Autumn)」は、2003-2004にかけて作曲されており、前述の「Sideshow」の5年ほど前に書かれています。その中間時期に書かれた「Das Fliegenpapier/The Flypaper」も含め、どれも奇妙な演劇性が含まれています。

これらの作品では共通して、演奏するために存在する舞台上の奏者の身体が(ステージ上にいるだけで、その意味は言わずもがな、演奏するために存在していると認識させられる)、本来の意味と反して、演奏の身振りだけをするよう書かれている箇所があります。しかし演奏家が舞台上で、演奏をしているふりをしているとしても(例えば実際に出ている音はスピーカーから聞こえてくるetc.)、慣習的な認識の上では、演奏家が実際に演奏をしているかのように感じられます。ここでは、現実と虚実が入れ子のようになって、想像上だけに存在する半リアルのような仮想空間が出現するのです。

過去作では、生音が生では生成され得ない状況下に置かれることで、不思議な違和感を作り出していたわけですが、やり方は違えど、近作で行われていることも「現実」と「虚実」の間の中間的世界なのではないかと思うんです。

「奇妙な秋」では、それに加えて、言語感の認識のアワイも緻密に計算された上で表現されています。私達人間が認知認識のレベルで、何をどう理解するのか、○でも△でもない、中間的な気持ちの悪さを、人は恐らく各々の認知の度合いで理解するはずです。

人がライブで演奏するときに認識される音響と録音物による音の交差、二つの言語の交錯、そして二人の人物の不思議なシンクロニシティが、この作品から醸し出される「独特の奇妙さ」を充分に作り出すことでしょう。

ちなみに楽譜はこれ以上ない程、細かく丁寧に書かれており、どの身体的・演劇的動作も作曲家自身によって詳細にコントロールされています。


若手作曲家のプラットフォームになるような場の提供を目指しています。一緒にシーンを盛り上げていきましょう。活動を応援したい方、ぜひサポートお願いします!