見出し画像

生きるということはどういうことか?

両国門天ホールで行われているシリーズ企画。キャビキュリとして企画構成に関わっています。門天の空間と特性に合わせて、小さな編成+エレクトロニクスというくくりで、三公演を構成しました。

一つ一つの公演については、当日配布するプログラムで説明がありますが、プログラム全体を俯瞰で見ることがなかったので、このNoteでまとめてみようと思います。99パーセント主観です。

まずは復習。一回目のプログラムから。この日はチェロと打楽器という編成で、北嶋愛季さんと難波芙美加さんがゲストでした。

リザ・リム:Cello playing – as Meteorology(2021)
ジョルジ・アペルギス:Cing Pieces(1994)
シモン・ステン=アナーセン:Next to Beside Besides(2003/6)
ジェシー・ブルックマン:Body of Unseen Beings(2016)
エレナ・リコヴァ:You exist. AndIam an illusion(2016)
森紀明:A Study of Relations II (2023/24)

第二回目は、ヴァイオリン二本ないしヴァイオリンとヴィオラの編成で、ゲストは河村絢音さんと松岡麻衣子さんをお呼びしました。

アン・クレア:On Magnetic Fields (2011-2012)
キャロリン・チェン:My Loves Are In America (2019)
カレン・パワー:Sonic Cradle (2016)
カローラ・バウクホルト:Doppelbelichtung (2016)
クララ・イアノッタ:Limun (2011)

そして最終回の7月3日は、トロンボーン二本の編成で、村田厚生さん、茂木光伸さんをお呼びします。全三回通してエレクトロニクスは佐原洸さんです。

マックス・マリー:Hlimman – Beneath the Earth(2019)
森下周子:新作初演(2024)
佐原洸:Renga II (2022)
ヘルムート・ラッヘンマン/マイク・スヴォボダ編: Pression version for trombone(1969/2011)
トーン・ファン・ウルセン: Slides / Coulisses / Züge(1992)
ヴィンコ・グロボカール: Dos a dos(1988)
ジョルジュ・アペルギス:Ruinen(1992)

毎回キャビキュリではわたしと森さんでやりたい曲をとにかくたくさん挙げてみて、そこからディスカッションを重ねて最終的にはバランスや演奏可能かどうか楽譜が手に入るかどうかなどの実際的な理由を加味して決めていきますが、2021年からリサーチを始めてかれこれ3年。前やりたかったけど諸事情でできなかった作品というのもあり、今回はそれらの作品も入っています。

公演それぞれに正式なタイトルがついていますが、それとは別に一回目は『物と人』、二回目は『個人性』、三回目は『空間』が個人的裏テーマです。コンサートをキュレーションする上で、全体のコンセプトを言語化する機会は思ったより少ないのですが(各曲のコンセプトの説明に留まりがち)、各回のテーマ設定についてもう少し踏み込んで書いてみようと思います。それぞれ音楽を作る上の、旧来の主要要素ではないところが特徴で、物、人、空間、個人は現代社会を生きる上での人類共通のテーマでもあることから、ぜひ分野が異なるみなさんにも共有したいプログラムです。

物と人

古くから楽器と音楽の発展には深く関連があり、これだけ平均律の音楽が普及したことはピアノが量産化され、世界中で弾かれるようになったことと関連しています。音楽自体の欲求から新しい楽器が作り出されるハリー・パーチのような例は稀有なもので、楽器は資本主義社会の中で定着し、その限定的制度の範囲内で作曲家は新たなアイディアを付加し続けてきました。楽器、そして奏者の身体性の開発、作曲家のアイディアはこれまで絶妙なバランスで拮抗し、音楽の歴史は発展してきたように見えています。しかし従来の考えの中での楽器は、その可能性を拡大させてきたものの、人間との主従関係は変わらず、演奏家にとって道具であるという認識が強く残っていたような気がします(考えてみるとクラシック音楽における作曲家中心の音楽史のあり方や楽譜を優先する考えにも、一方が主で他方が従というヒエラルキーを感じたりします)。

産業革命以降の量産型楽譜には、広くあらゆる場所へ届けることができるメリットがあるものの、フィックスされたメディアであるが故に演奏するその場性や楽器ごとの個体差、演奏家の身体的違いも表すことが困難である特性がありました。そんな中、5月のプログラムの中で、その関係性に異なる視点で取り組んだのがリザ・リムの作品です。リザの作品にはどこかスピリチュアルな見えないものが含まれていますが、彼女自身がこの特別な作品についてこう語っています。

この作品は、James Morleyとのカフェでの会話から始まりました。彼が演奏するチェロについて、具体的には2004年にオーストラリアのルシアー(楽器製作者)、Rainer Beilharzによって製作され、故Mitra Guha教授から彼女の亡き夫の思い出として貸与された"Ex-Robert Barrett"というチェロのことが話題に挙がりました。Jamesは、このチェロが彼の手に渡るまで約10年間演奏されず、最初は「閉じた」音色を持っていたと話しました。しかし、彼がこのチェロと共に作業し演奏する中で、徐々にそれは「開かれ」、響きが豊かになっていったと語りました。楽器には一種の生命力とも言える力があり、それはすべての音楽家と共有されるものです。

ここでリザは楽器をモノではなく、生きているヒトのように語っています。「音がでる生命体」としての楽器と演奏家の関係、そこで起こり得るマジックがこの作品の特徴であり、このコンサート全体においても重要なキーポイントです。彼女が作品の参照としてティム・インゴールドの著作を挙げているところも興味深いです。

音楽における個人性

第二回目は偶然、女性作曲家がフューチャーされた回になりましたが、ここではジェンダーによる違いというより彼女たち自身が知らず知らずに挑んでいる新しい音楽における一種の革命が音から感じられるコンサートになったのではないかと思います。これまで、特に欧州中心の西洋音楽/現代音楽では文脈が重要視され、そのコンテクストの中でいかに新しい音楽、音響を作り出すかという戦いを強いられてきました。文脈、言い換えると男性が作り上げてきた西洋音楽の歴史の中では、そのルールに乗っ取って新しいものを提示する必要がありました。男性社会の中で、彼らと同じような風貌で戦う必要があった年代から時間が経ち、今現在欧州ではジェンダー50/50が進められて久しく(コンサートのプログラムの男女比や出身国や人種などのバランスも含めて)、わたしたちはマイノリティとして、マイノリティらしい作品を書くことを必ずしも求められなくなり、個人として音楽を書くことができるようになりました。小さなintuitionをそのまま音楽にすることができるようになったことは大きな変化であり、例えばこのプログラムにおいては、キャロリン・チェンの作品に、まさにそういった喜びを聞くことが出来ます。キャロリンの作品はアイルランドの伝統音楽がテーマになっており、彼女がアイルランドの音楽家の演奏を生でクラスで聞いたことがきっかけで作られました。クラスではじめて聞いた時「何を弾いてもらっても同じように聞こえた」という体験からフィドルの音楽へのリサーチが始まりそれによって書かれた大作ですが、日々の生活の中での個人による小さな気づきや発見、または疑問が音楽になっていく様子は、これまでのコンテクスト重視の音楽とはベクトルが逆で、だからこそ見えない価値があります。必ずしも大きな文脈を背負いこんで、歴史を変えていかなければいけないわけではない。そんな彼女たちの自由で、個人的な音楽観がそれぞれ感じられた回になったと思います。

演劇的空間

第三回目は音楽によって立ち上がる空間そのものに注目したい回です。音楽における空間は非常に古くから注目されてきた要素です。ただし空間について活字で記述することが難しいため、ほかの要素より研究が遅れた分野でもあるのではないかと思います。エレクトロニクスによって空間的な音響を作り上げることが可能になり、そういった面での新たな音響的空間の創造が可能になりましたが、ここではもう少し違った側面から空間について考えたいと思います。

トロンボーンの現代音楽というと、ベリオのセクエンツァを思い起こしますが、楽器の開発という点以外で、空間の異化を端的に成功させたこの作品は、このプログラムで演奏される音楽や作曲家にも直接的/間接的に影響を与えているのではないかと思います。

今回プログラミングしたグロボカールはベリオの弟子であり、グロボカール同様、作曲と金管楽器の二刀流という意味でいうと、このプログラムではトーン・ファン・ウルセン、ラッヘンマンのPressionのトロンボーン版を編作曲したスヴォボダも作曲&トロンボーン、同世代のマックス・マリーは作曲家としてハーバード大学で博士号を取得しながらも、チューバ奏者や指揮活動などを行っています。彼らが書く音楽が楽器にとって効果的であることはもちろんのこと、演奏に際する空間把握が素晴らしく、どういったスペースでどんな空間認知が行われるか、作曲する上ですでに見えているんだろうなと思います。

音楽が鳴る空間という意味合いだけでなく、そこに人がいるときに、そこで人が息をしているときに発せられるエネルギーや、その波長のようなものが作曲上の要素として扱われることで、もうここでは音がドなのかレなのか、リズムが四分音符なのか八分音符なのか、そういったことではなく音がそもそも何のためにあって、人間が生きる空間内で人が音が鳴らすことでエネルギーがどう移動していくのか、音響による創造的な力学を見せてくれる作品が多く揃いました。
一回目の裏テーマである「物と人」にもリンクしてくるところもあり、その空間にある物体、人間、それらから発生する波長が空間の中の認知としてどう作用するかというところにも注目してみてみると、演劇的な要素も読み取れるかもしれません。

第三回目シリーズで聞いて頂くグロボカール作曲の『Dos à dos』では、奏者が「Ich, I love/hate you」と叫ぶ場面があり、それを聞くと、セクエンツァの「Warum?」をどうしても思い出してしまいますが、ベリオの演劇性や繊細な空間やその場性への感受性が後世の音楽家にも大きな影響与えているのではないかと感じます。

音楽の歴史の中で、以前は作曲家が演奏家であり、兼業が当たり前だった時代から、分業化したことで演奏技術がより高度なものへと変化し、それもあいまって音楽自体が複雑化の一途を辿ったわけですが、今、同世代の音楽家たちの活動を見ていると、演奏家であり作曲家である、もしくは研究者でもあるというパターンが多く存在し、演奏を頻繁に行う彼らは、技術的にも高度でありながらも認知の面で解像度の高い音楽を作り上げています。認知とは楽譜上でイメージしている音だけでなく、その空間自体で音が鳴るという空間的認知能力のことで、それが高いコンポーザー・パフォーマーが多く存在しています。少し前の現代音楽のように複雑な音型が続いたり特殊奏法が羅列されていたりすることは少なくなり、そういった意味で黒々として楽譜ではなく、作曲家の認知能力の面で質を問われる時代に入ったのかもしれません。

第二回目にプログラミングしたアイルランドのアン・クレアの作品でも、彼女自身が自分の作曲は音による空間のコレオグラフだと言及しており、若い世代の音楽家たちが従来の音のパラメータだけでなく、音による空間の質をどう作り上げるのかということに興味を持っていることが伺え、それは同時に楽譜からしか読むことができない側からすると、楽譜だけではアナリーゼしきれない部分を持つことから再現が難しいといった問題もはらんでいるように思います。よりサイトスペシフィックな方向に進んでいることは、今の世界情勢から見ても明らかで、音楽が国境を越えずにその場、その場で作られ消費されていく社会になっているような気もして、新たなものに出会い、作曲家が思い描いたクオリティの音楽をみなさまにお届けするためにリサーチの重要性を感じる日々です。

雑なプチ相関図

今回全三回にプログラミングした作曲家の独断と偏見による、解像度低めの相関図です(改めて見るとハーバードで博士号を取得した作曲家が多いこと、そしてコンポーザー&パフォーマーが多いのが特徴かもしれません)。

ハーバード大:エレナ・リコヴァ、クララ・イアノッタ、アン・クレア、マックス・マリー

コンポーザー&パフォーマー:マイク・スヴォボダ、トーン・ファン・ウルセン、マックス・マリー、グロボカール、森紀明

シアトリカルな創作:カローラ・バウクホルト、アペルギス、シモン・ステン=アナーセン、グロボカール、マイク・スヴォボダ

日常的なノイズ:カローラ・バウクホルト、カレン・パワー

ドイツ語圏在住:カローラ・バウクホルト、ヘルムート・ラッヘンマン、クララ・イアノッタ(イタリア出身)、マックス・マリー(カナダ出身)、シモン・ステン=アナーセン(デンマーク出身)

スイス:マイク・スヴォボダ、(エレナ・リコヴァ、ロシア出身)

アイルランド:アン・クレア、カレン・パワー

オランダ、ベルギー:ジェシー・ブルックマン(Gent在住)、トーン・ファン・ウルセン(アムステルダム出身)

日本:佐原洸、森下周子、森紀明


若手作曲家のプラットフォームになるような場の提供を目指しています。一緒にシーンを盛り上げていきましょう。活動を応援したい方、ぜひサポートお願いします!