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創造を放棄した私たちへ

キャビキュリ活動を始めて間もない頃に二つの記事を書きました。一つはこちら。

そしてもう一つは、こちらの記事です。

「作曲家は社会の無駄か?」では、キャビキュリを始めたきっかけについて書きました。今回の公演プログラムでもリライトしたものを掲載する予定です。そして2つ目の記事では、社会を包括的に考えることについて書きました。どちらもド主観的団体紹介記事なのですが、どちらにも共通していることがあります。それは「我々は創造を放棄してきた」ということです。

一年前に日本に帰国して、久方ぶりに実家の棚にあった若かりし頃の創作ノートを読み返しました。作曲を始めた頃、小学校高学年かそこらの自分に対して師匠がこんなことを書いてくれていました。

作曲=Composion
Con+Positionだから、作曲とはポジションを考えることだ。

わたしは創作をするということは、「決断をする」ということだと思っています。一つ一つ自分自身がポジションを決めていくこと。いかに想像し、自らが決断するか、何者にも責任転嫁せず自分の口で、自分の言葉を話すか、これが創作の根本であると、そう考えてきました。

そして今思うんです、どれだけのアーティストが労働者としてではなく、創造者としてその責任を果たしてきたのかと。

様々な時間的・経済的環境、身体・メンタリティの問題などあるかもしれない。でもどうしても、こう考えてしまう。創造者は何にも言い訳せずに、本当にしたい決断をしてきたのか? もしかしたら多くの場合それを放棄してきたのではないか? その音がそこにある理由は、なんだったのか? その編成で書く理由は、どこにあったのか? どうして、その決断をその瞬間にする必要があったのか?

わたしたちが生きる世界は資本主義という社会構造のルールの上にあります。どんなに手弁当な現代音楽シーンも残念ながら例にもれず、この大きなルール上に成り立っています。創造という一般のルールから外れたところにあるはずの我々も表面上新しいことをしているように見えるだけで、実は何も変わらず、資本主義社会のルールの上で誰かの決断に寄り添っているのです。

わたしは室内オーケストラという編成が好きです。オーケストラやオペラのような箱物運営ではなく、ソリストの集まりである室内オーケストラは、今の現代音楽シーンの中心でもあると思っています。

ヨーロッパで多くの現代音楽室内オーケストラができ始めたのが40年ほど前のことです。以降この分野は飛躍的に発展しました。多くの現代音楽フェスティバルでも目玉になる新作がその都度生まれ、そこから更にシーンが動いていく、そういった感触があります。でも、日本でそれらの作品が演奏される機会は殆どありません。欧米の音楽シーンを揺り動かしてきた、あの作品もこの作品も日本で生で聞くチャンスが殆どありません。

社会を包括的に考えることは利己的であると別記事で書きました。この日本で室内オケ公演を個人がやるというのは、非常に利己的な判断だと思います。資本主義社会の根本を度返ししてますし、通常は殆ど不可能なことです。でも今回は運営チームの利己的判断で、「やりたいからやる決断」をしました。これ以上40〜50年間の間に作られた、あの作品もこの作品も聞くことができない状態をキープし続けることは創造を放棄していることになるからです。

今回演奏される作品たちについて、前記事では珍品と書いてしまいましたが、どれも海外フェスで目玉になるような現代音楽の歴史上聞いておくべき作品ばかりです。今の日本にはそれらを難なく弾きこなすことの出来る多くの演奏がいます。こんなにも多くの現代音楽を愛する演奏家がいることは、20年前には想像ができなかったことだと思います。特殊なことを特殊だと感じさせない、音楽を作ることができるミュージシャンが多くいます。彼らと一緒に音楽を作ることができる喜びをいま噛み締めています。

彼女ら/彼らが作る音楽からまた更に決断する勇気をもらえるはずです。ぜひ多くの皆さまに聞いていただきたいと思っています。明日の決断をするみなさんに。

若手作曲家のプラットフォームになるような場の提供を目指しています。一緒にシーンを盛り上げていきましょう。活動を応援したい方、ぜひサポートお願いします!