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「頑張れ」は祝福か呪詛か

母が亡くなり、一連の葬儀の間、たくさんの弔問客が版を押したように同じことを言った。

頑張ってね

苦労は買ってでもせよ、という言葉があるんだよ

頑張ればそれは必ず糧になるよ

だから頑張れ、頑張れ、頑張れ…

そうか、頑張らなければならないのか。私は長女だ、頑張らなければ。頭の片隅でささやかな違和感を覚えながらも、その言葉を真摯に受け取った。

その後は常に、自分にとって嫌な方、やりたくない方、辛い方を選ぶことにした。困難があれば、私の頑張りが足りないせいだと考えた。人に協力を求めるのは「甘え」で、「甘え」=「怠け」だから許されないと思った。

仕事のストレスも加わってついにうつ状態になった時も、「なぜ私はもっと頑張れないんだろう」「自分は弱いから頑張りが続かなかった」「病気になるなんて情けない。頑張ってない証拠だ」と考えた。


「頑張れ」と言ってくれた弔問客は、追い詰めるつもりなどなかったはずだ。

母親を亡くした気の毒な子どもがこれから遭遇するであろう困難を想像し、どうか乗り越えて幸せになって欲しい、と願って出た言葉だっただろう。

でも私にとっては呪いに他ならなかった。だから頑張るという言葉を嫌いになった。そして、それはきっと他人にとっても同様だろうと思い、自分が口にするのも避けた。


しかし、数年前に変化が訪れた。

マクラメ教室を立ち上げ、運営するのは予想以上に大変だった。だが、頑張ることが楽しかった。頑張れる自分が嬉しかった。

頑張る、は悪い意味ばかりじゃなかったんだと、目が開いた思いがした。

とはいえ、未だにあまり好きな言葉ではない。相手によっては呪詛にもなるということを、嫌というほど知っているからだ。

だから誰かに使う時は「一緒に頑張りましょう」と言う。

頑張りのその先がどうなるのか、見届けるまで伴走できる相手にだけ使う。伴走できる、というより、伴走したい相手という方があたっているかもしれない。

そうして自分は、今の自分が好きと思える程度に頑張る。頑張っていても、頑張っていなくても、今の自分が好きと思えるならそれでいい。

頑張りは、他人のものさしではなく自分ではかるのが正解。

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