習いごとは、子どものためでなく、親の「時間」「生き方」を守るためのもの

子どもの習いごとについて、ずっと考えている。塾についてもそうなんだけど、

「果たしてこの習いごとは、うちの子にやらせる意味はあるのか」

「そのお金を払うだけの価値があるのか」

基本ケチな私だから、そんなことをずっと考えている。「いろいろな体験をするきっかけになる」とか「水泳ができるようになると体育の授業で得になる」とか「成功体験が増える」とか、一般的に言われていることは十分わかっている。

ただ、世の中のキッズが一般的にやっている習いごとに、私は正直なんの魅力も感じず、子どももそれほどやる気がないのなら、「それならその時間を自分の好きなことやればいいんじゃないの?」というスタンスである。

しかし、そんなことも言っていられないことが夏休みに起こった。

小3の息子は2年の終わりで学童を辞めてしまい、初めての学童なし夏休みが始まった。しかもコロナ禍で、学校の登校や水泳教室も無くなり、学校に行くきっかけが一切なくなった。さらに、息子は習いごとはやっていないため、まさかの「オール家で過ごす」夏休みとなってしまった。

息子は自堕落なタイプで、絶対に自分からやらないタイプ。さらには、「面倒なことは後でやればいい」というお気楽主義なので、早く宿題や課題を終わらせてほしいとイライラする母親の横で、息子はのんべんだらりと横になり、タブレットでゲームや動画を見ている。しかも暑さやコロナの影響もあり、外でもなかなか遊べない。

宿題をやらない息子にイライラ、怒り、怒号。さらには聞かれても軽い無視をするなど、信じられないほど親のストレスが溜まっていった。自分とは違う人間である子どもなんだから、自由にさせておけばいいと思いつつ、最後に尻を叩くのも親の仕事と考えると、ついつい気持ちは急いで、前のめりになってしまう。

メンタル的に地獄の1ヶ月半の夏休みが終わりを迎えたころ、ふと考えたのが「こういう時こそ、習いごとなんじゃないの?」という考えだった。

宿題、課題、運動、遊び。いろいろなことを子どもたちは自分でやる術を持たない。やりたいと思っても、場所、道具、時間など、様々な制約があり、すぐにできないことが多い。あと一番は一緒にやる人、教えてくれる人がいないということだ。親がめちゃ前向きかつ暇な人で、「じゃあ一緒にやろう」「私もやろうかな」となればいいが、自分も仕事で忙しいし、やりたいこともあるのでそれができない。そのための習いごと、塾なんだろうと思う。

親は、いつだって子どものことを考えている。「子どもの将来のため」を思い、様々な経験をさせ、知識を増やし、人生の喜びを伝えたいと願う。それが責任でもあり、義務でもある。しかし、親には親の人生があり、やりたいこともある。それを代行してくれるのが、習いごとや塾の存在だ。

子育て、教育、経験を親の代わりにやってくれる習いごとや塾。それは子どものためでもあるが、一番は親の時間を守り、苦労を代わりにしてくれる存在であるのだ。親を楽にしてくれる、育児の責任から解放する道具としての「習いごと」や「塾」と考えると、ぐっと気持ちが楽になる。ケチな私も、自分のためとなると、「じゃあ、やってもいいかもだし、むしろやらせたい」と気持ちが変わる。

そんな思いへと変わった今、息子が多少興味があるという、ボクシングと陶芸の体験に行ってみようと思う。将来には一切役に立たないかも、でもそれでもいいんだ。子どもがやりたいことだし、親の時間も守られるし。それだけで得、意味があるんだと思う。




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