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#090: 「問いになってない問い」が嫌い

今日参加したセミナーで、
「働き方を考えよう」という自己理解のワークがありました。


仕事に対する価値観を確認した


仕事に関する価値観が
34個リストアップされているものが配布されまして。
たとえば、こんな感じ。
・周囲の人に役立つ仕事がしたい
・技術発展に貢献できる仕事がしたい
・家族のために働きたい
・・・など。
まず、その34個のなかで
「自分が重視したい項目」を数を問わずチェックします。
次に、「特に重視したい項目」を3つ選んで再度チェックします。
最後に、その3項目それぞれについて
選んだ理由や、自分としてはどういう意味づけをしているかをメモします。

私が選んだのは、この3つでした。

①能力発揮
仕事の中で、自分の能力を全出しして(ここが能力発揮)、
成長貢献承認→さらなる成長の機会をいただく
貢献承認→さらなる成長の・・・、
というスパイラルをぐるぐる回していきたい。

②大切な人との時間
大切な人との時間を大切にできる生活をしたい。
時間的にも、経済的にも、体力的にも、気持ちの面でも。

③他者貢献
相手のビフォー・アフターを見るのが嬉しい。
その人が自分の状況や問題、課題、打ち手、能力、思いなどを
自分で見出した瞬間(思い出した瞬間)、
人というものは自分で一歩を踏み出すと信じていて。
目の前の人が、自分自身でそれらを見出した瞬間の
「あっ!」という表情がなんとも言えないんですよね。

その人が持っているけど、持っていないと思っていたり
気づいていないものを、ただ思い出してもらうだけで
変化が起きる準備が整う。
AKIRAで言う、「これも俺のチカラなのかぁぁ???(驚)」状態です。

ここで、師匠の矢野惣一先生のメルマガから、
現代の心理療法に大きな影響を与えた精神科医、
ミルトン=エリクソンの言葉をご紹介します。

その人が持っていないものを
与えることが心理療法ではない。

また、その人の歪んでいる部分を
矯正することでもない。

その人が持っているにもかかわらず、
持っていないと思っているものを、

どうやってその人自身が
使えるようにしていくのか。

そこを援助するのが心理療法です。


「問いになっていない問い」

この、エリクソンの言葉や
「人というものは自分で一歩を踏み出す」という信念(?)に
思いを馳せてみて、
「質問しているようで、決めつけている問いが、やっぱ嫌いだな」と
ふと思いました。
問いになっていない問い。
「診断的な問い」とも言いますが。

「xxxxxとなったらいいと思いませんか?
 xxxxxしたいでしょう????」
みたいな、
「yes」しか答えようがない、問い(の形をした意見の押し付け)とか。

こういう時、「なんでですか?」とか
「xxxxxxって、よくわかりません。具体的にどういうことですか?」とか、
問うている人との関係性によっては聞きにくかったりします。

それまでに、十分に対話がなされていて、
xxxxxの部分が共通認識になっている、
且つ相手もそれを好ましいと思っているのなら
こういう問いを投げてもいいのかもしれません。

ただ、こういう問いをするときは、
「xxxxxx」に来ている方法論ありきで
話しているような気もします。

その人の中に「答え」があると信じている

私がこう思うのは、
相手自身の中に「答え」があると信じているから。

時と場合によっては、考える材料がなさすぎて
すぐには「答え」(考え)が言語化できないことがあるのも
理解しています。

でも、可能な限り、相手の中にあるものを大切にしたいなと思っています。
ある問いが機能しないなら、別の問いを投げかけるとか、
様々な角度や視点で、質問をしてみたり。

本音のキャリアを生ききる
あなた自身が、自分の本音に気づき、自分の言葉で言語化できるような
関わり方をしていきます。

今回もお読みいただだき、どうもありがとうございました。
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