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星図で読み解く歴史ー射手座

射手座は、おうし座同様に古くから存在していた星座である。射手座はおうし座の丁度対極にある。
射手座は冬至点に当たり、古代この日を一年の始まりとしていた。冬至を過ぎると太陽の復活が始まるからだ。ただし射手座が夜空に輝くのは夏である。


写真はバビロン彫刻の蠍人

初期の射手座のモチーフには蠍が関係する。
翼は船の象徴だと思う。
弓が半弓になっているため、これは風や方位を表現したものと解釈する。

中東のアラビア海には夏に南西の季節風、冬に大陸から北東の季節風が吹く。
緯度30度までは貿易風(偏東風)が吹いており、東からやってきた海人が卓越風である季節風の力で復路の航海をスムーズに行なっていたと考える。

蠍人の後頭部には虎らしき動物の頭部が描かれている。尾はネコ科の尻尾と蠍の尻尾の二つが描かれる。
蠍人の半身は馬というより虎に近い。
このジャンプの身体の使い方は馬でなく虎だと思う。

西方白虎の考察でかいたが、白虎のモデルはベンガル湾を拠点とした海人であり、虎をトーテムとし、鍼治療の専門家であったと推測している。漢字成立(殷時代)前の世界である。

紀元前3000年のミイラ、アイスマンには針治療の跡があったとされる。つまりベンガル湾の虎をトーテムとする海人がヨーロッパまでやってきている。


ネブカドネザル一世時代(紀元前1100年頃)の境界石標では半蠍半人が駝鳥のような脚を踏ん張って半弓を引く姿が描かれる。翼は無い。

翼が無いのは、船を使っていないと見ていいだろう。
弓も半弓。武力としての弓でなく、風を示す。

紀元前2000年、アラビア半島で駱駝が家畜化される。
駱駝は砂漠での移動に向いており、砂漠地帯の横断が可能になった。ちなみに西アジア一帯の砂漠が拡大したのは紀元前4000年頃とされる。

ネブカドネザルの石標の蠍人の脚は駝鳥のようだが
駝鳥は駱駝と似ている。
つまり、この時代に蠍人は舟でなく駱駝に乗って移動するようになる。

何故か。
紀元前1500年頃アーリア人がインド北西側から侵入してベンガル湾海人は居場所を失う。どこへ向かったか。

紀元前1200年のカタストロフは、海の民が引き起こした。この海の民はギリシャ語話者と言われるがよくわかっていない。
おそらくこの海の民はベンガル湾にいられなくなった海人の大集団だろう。
ベンガル湾に面する幾つかの河口に住む部族ではないか。元々地中海に交易で来ていたからギリシャ語を話す事ができた。
紅海から入って居住地を探したのではないだろうか。
地中海から駱駝で砂漠を抜けてバグダードにやってきた。

では半身が馬になったのは、いつからか?
そして蠍人が姿を消したのはいつからか?
弓が半弓で無くなるのは?

馬である射手座はギリシャ神話のケイローンの姿とされる。医術、音楽、天文、弓術など百芸に精通した。


馬に乗ってユーラシアの遊牧民がやってきた。
スキタイ人。
ヘロドトスは、スキタイ人が東方起源ではないかと匂わせる。

スキタイに伝わる神話がある。
ヘラクレスがスキュティアの地で蛇女と交わり、三人の子をなし、弓と金の盃の帯を残して去る。三男がヘラクレスの残した品を受け継いで王となった。
スキュティアは黒海北部(ウクライナ)で、この地を開拓したのだろう。
スキタイ人はここに紀元前8世紀頃から定着する。
黒海沿岸にギリシャの植民都市が建設され地中海、メソポタミアとの交易を活発に行い紀元前4世紀頃繁栄した。

蛇女である。
これは東方の龍だと思う。
水を司る龍。治水技術に優れた人々。
治水は数学とセット。
また航海技術を持ち黒海での交易を盛んにした。
航海技術には天文学も関与する。
天文学も数学とセット。
東洋医学にも精通していた。

ケイローンが他の荒々しい騎馬民族と違うのはこの為だろう。騎馬民族が蛇(龍)と手を組んだ。

何故東の龍が黒海に居住するのか?
紀元前8世紀にウクライナにいる、もしくはスキタイと同化するには紀元前9世紀には出日本を果たしているはず。

日本の歴史では稲作ー弥生時代に入る頃である。
日本人のDNAの35%は、中国中部に起源をもつこの弥生人。
つまり、ベンガルの場合同様、押し出された。 稲作の民に追い出される。

こうして、黒海を拠点としてメソポタミアにやってきたスキタイ人が射手座のモチーフとなる。

射手座は本来蠍人。
馬と弓は騎馬民族の象徴。
射手座の図象が歴史と共にモチーフを変える所に
歴史の姿が見出せる。

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